2017年10月2日月曜日

はじめに


エッセイで書いたものをブログ形式にまとめました。

なのでページの最初からが順番となります。






結婚して24年にもなります。いつのまに??という感じです。

いまでは珍しくもない国際結婚。
言葉も文化も違う国に嫁に行った私のてんてこ舞いの日々と、優しくない嫁に笑われてばかりの変な日本語を話すおとうたん(ニックネーム)との日々を綴りました。

辛かった日々もありましたが(アイダホど田舎とか)思い返せば「楽しかったね」という思い出のほうがうんと多いと思います。

国際結婚?だいじょうぶだよ。結婚?なかなかいいもんだよ。と言うメッセージが含まれております。

それから英語などもシモネタ多めになっておりますので、お気をつけくださいませ。こちらは単にワタクシの趣味です。(笑) 

今日もオハイオの我が家は私と夫、息子3人プラス猫2匹の笑い声がひびいています。
楽しい生活の裏には厳しいことも多々ありました。

そんな国際結婚のセキララな現実をお楽しみください。



ドードー鳥のおかげで夫と出会った日

 夫との出会いはY基地の中だった。

 当時私は英会話教室で英語を習っていた。

 先生との会話だけではなく、友達がほしいなと言う私に友人が基地のアメリカ人を紹介してくれた。その男性が夫になったわけではなく、初フレンドは残念な男だった。

 イタリア系のその男性は短気(Hot head)で、ばっかやろー(Dick head)だった。 ただ本物の英会話を聞けるチャンスだし、友達はたくさんいたほうが良いと思い、基地に出入りすることにした。

 初めての基地の中。独身用のドームに何十人もの若いアメリカ軍人がいた。初めてのオール英語。

 勉強どころではなく頭がガンガンしてくる。紹介してもらったイタリア人、時々日本語でなにか言ってくるが、全くわからない。
ある日、あれ知ってるよね?と

「ボーノードーリー」と言った。

「え????ドードー鳥?」
 
「No!!No!! ボーノドーリ!!」そして英語で

「日本人なら誰でも知ってる!!わからないおまえはおかしい」と怒っていた。

 何十回もボーノドリ!!ボーノドーリ!!と叫びながら手を振りまわしている。
鶏か?いや、どう見てもドードー鳥の物まねだ。
怒りながら鶏ダンスをしているイタリア人。困り果てた日本人(私)

その時に助け舟が。その(ドードー鳥)の友達がすたすたと歩いて来て

 「ぼんおどり!」と言って去っていった。

 謎のボーノドーリは盆踊りだった。 

 

 その友達はスペイン系だった。スペイン語が母国の人は日本語の発音が非常にうまかった。

 若いアメリカ人同士は皆おもしろがって悪い言葉を教えあっていたが、「キィーンテァ~マ」ではなく「きんた◯!」と非常に綺麗に発音できる人だった。

 ボーノドーリーの謎はBon-odoriのBonのNと次のOがくっついて(ノ)という発音になったのだった。アメリカ英語では良くあるので、今ならピンとくるけれど、当時は想像もできなかった。

 踊りは全く盆踊りじゃなかった。

 かんかんなボーノー鳥の真っ赤な怒った顔を今でも思い出す。

 
 そんな独身寮のコミュニティールームで少々疲れていた私に

 「こんにちわあ」と日本語で話しかけ優しく笑ってくれた身体の大きい男性がいた。フレンドリーな良い人でいつもにこにこ笑っていた。

 何度か友人と一緒にグループで出かけた。そして、思いやりがあるその人にどんどん惹かれていった。

 この男性こそ、後に日本の絶世の美女(ちょっと嘘)と結婚することになる夫だった。

 数人の日米グループでピクニックに行ったり、山に行ったりしてグループでは楽しかった日々。でも初フレンドのボーノドリさんはますます独占欲が出てきて縛り付けようとしていた。

 ある日ボーノドリの部屋に遊びに行ったときのこと。

「もう夜遅い、俺は明日早いから泊まっていってくれ」という。

「え?絶対にダメ!何時になっても帰らないと!」と深夜の大げんか。大和撫子の大ピンチだ。

 その時にお休みだった夫は1人でリクレーションルームという独身寮での共用スペースでテレビを見ていた。

「あ、じゃあ僕が送っていくよ」

「そうしてくれ!俺は朝が早いんだ」

 それはもう聞いたとぷりぷりしながら車に乗り、丁寧にお礼を言って送ってもらったのだった。

約四〇分ののドライブの間も気を使ってくれた。そして家について
 
「本当にありがとう」と玄関の前に立ち「バイバイ」と手を振る。

 車が出る時に見送るのが礼儀の日本人。家に入るのを見届けるのが礼儀なアメリカ人。

 玄関前で立ち尽くす私。 車の中で微動だにしない夫。


 立ってる私。待ってる夫。

 立ってる私。待ってる夫。




 数分たち、やっと­­­「なにか変だ」と気が付いた私たち。

 車から顔を出して「かーぎー?かーぎー?」と言うので、何だろうと思っていたら自分のキーを見せて「かーぎ?」と首をかしげた。

翻訳すると

 「鍵を持っていなくて、家に入れないの?」

 それでやっと(文化の違い)に気が付いたのだった。

 大きな体で小さい日本の車に狭そうに座り「かーぎ?」と首を傾げている心優しい大きい人が好きになった。

スケロクと初デート


 ある日電話番号を交換して、思い切って電話をしてみた。 

 あわあわしないように、前もって言いたいことを紙に書いておいて練習してからかけたのだけど、やはりそうとう慌てていたようだ。

 「Hello How are you? お元気ですか?」という挨拶の後に、突然

 「I like you!!好きだ!」と言ってしまった。

 今書くとすっごく恥ずかしい、中学1年生の英語だと思う。
そして、続けて言ったのは

 「Take me out!」  

 自分としては

 「どこかに連れてってくれる?」みたいな甘い感じと思っていたのだけど、今考えると

 「どっか、連れてけ!」に近い。 というか、そのままだ。

 彼はびっくりしたと思う。おとなしく優しいとアメリカ人男性が憧れる日本女性がいきなり

「好きだ!どっか連れて行け!」

脅迫だ。

 まあ中学英語でもこうやってデートが始まったのだから、基本は大事だと思う。

 そんなふうに当時の私の英語はまだまだ片言で、夫の日本語は単語20個位。
長めのセリフは

「トイレはどこですか? 」

「ビールをください」

「この2つは大事だよ」と今でも言っている。

 初デートはお互いがハンディー辞書を持って行った。

 今の時代ならスマホでちょいちょいっと英単語が出てくるのに、辞書をめくるダサい私達。 でも、それもいい思い出だ。


 初デートは新宿にした。 

 待ち合わせ場所に現れた彼は、なんと胸一面に大きなカブキの絵が書いてあるTシャツを着ていた。しかもドーンと助六と書いてあった。





 今なら「うわ~だせえ」と笑う、そんなデザイン。でもその時はなんだかとても嬉しくなってしまった。

 日本が大好きで一生懸命日本語を習おうとするでっかいスケロク、いや外国人。
その姿を見て、ますます気に入ってしまった。

 その日はメモ片手に新宿観光をした。

 前日、英会話の本を見ながら(ここは新宿都庁です)とか(この辺は高層ビルが建っています)を英語で書き込んだメモ。
たどたどしい説明にオーバーにOH!!と喜んでくれる彼。なにか食べるたびに

「OH!おいし~です!」と大喜びしてくれた。 
道端で売ってる小さなおもちゃを見つけて

「OH!かわい!」 

 露天のおにいさんも「歌舞伎だね!助六かい!嬉しいね、似合ってるよ!」と嬉しそうだ。

「えっと、これ、くーださい」
「ありがとうね!ひとつ?」
「も、ひとつ!ツゥーください!」

 そこで売っていた薄い木でできた首が動く鳥とトンボのマグネットを買って、一つを「プレゼント!」と渡してくれた。 

 今はもう羽が折れたトンボは今でも我が家の宝箱に入っている。



 ☆箱から出して撮影。24年もたつのに色あせてないですね。良い思い出です☆



 この日、朝から夜まで一緒にいて、帰りには手をつないでいた。
朝待ち合わせした時はただの友達だったのだが、一日一緒にいて夕食を食べる頃にはすっかり意気投合していた。

 夕食はしゃぶしゃぶ屋さん。

「こうやってね、お肉を洗うようにするの。しゃーぶしゃーぶってね」
「しゃーぶしゃーぶ」
「そうそう、上手!しゃーぶしゃーぶ」


なにがしゃーぶしゃーぶだ!
 国際バカップルの誕生だ。




 この日の楽しさは今でも忘れられない。

 その後なんと数ヶ月で結婚することになり、あれよあれよで二十四年も経っていた。
いまでは変な日本語を話すおっさんと変な英語を話すおばはんだ。

息子も生まれ、大人になった。
夫のことは(おとうたん)と呼ぶことが多い。アメリカンおとうたんだ。

そんな私達の日常を綴っていきたいと思う。


じぇぺあーんラブと亀のお話


 まだ結婚する前に基地の独身者用のドームの部屋へ遊びに行った時のお話。

 在日米空軍の独身者は一部屋をルームメートと共有している。当時でも結構狭いところに住んでいるんだなあと思った。

 それぞれ工夫してあり、彼のルームメイトはベッド周りに病院のようにカーテンを引いてあった。これは彼女が来た時のあれやこれやのため。

 姿は見えぬが隣の声が丸聞こえというこの状況は、あれやこれやの英語の勉強には役に立ったかも? 行くんじゃなくて来るんだ?(I'm coming)みたいな。コホン、失礼。

 男性も女性も同じドームだが、ルームメイトは同性だ。

 そして彼の部屋。そこにはなんと、2畳だけだが畳が敷いてあった。基地の中のアメリカ風宿舎、大きなドアを開けると2畳の畳。 



 初めて見たときはびっくりした。 

「え~たたみ~??」

「うん、いいでしょう?タタミマット!ヘビーだった!」

2畳分の畳マット。 買って持って帰ったらしい。


そして壁には布のタペストリーがかっていた。

黒字に(京都)(日本)の金文字で漢字、絵は富士山と桜と舞妓さん。

ものすごい、べたなTheジャパーンなタペストリー。 

修学旅行の中学生でも買わない、そんなデザイン。

「これ、どこで買ったの?」

「あ!これ好き?欲しい?」

 
……いらねえ。

 
 壁に貼ってあるThe japanないろいろなものを見せてくれた。机の上にも金色の龍の置物があった。ん?これはジャパン?

 さらにベッドの上に毛布が掛けてあったのだが、目を引くロイヤルブルーの毛布に一面に大きな虎の模様が描かれている。



 頭のなかでドラの音がジャアーーンと鳴った。

 なんか、もう、日本ぢゃない。 

 それにしても、提灯とか紙でできたランプとかどこもかしこも日本ラブにあふれていて、私はぷっと笑いながらもすごく嬉しくなってしまった。


 それから、ペットの緑がめを大事に飼っていた。 大きな水槽に綺麗な水。色とりどりの石を敷き詰め、宝箱のような飾りも入っていた。

「あ!カメ飼ってるんだ!名前は?」

「かめちゃん!!」

 そのまんまや~ん。



 かめちゃんを買って帰った日に辞書で調べたそうだ。
そしてかめちゃんは初めて行ったお祭りで買ったらしい。

 多分福生の七夕祭り。

 「金魚すくいは楽しかったけど、難しかった」とか
 
 「焼いたコーンはソイソース味で美味しかった」とかすごくエンジョイしたようだ。嬉しそうに話してくれ、写真もたくさん見せてくれた。

 私には全然珍しくない(焼きとうもろこし)と書いたのれんや浴衣を着た子どもたち。

 そして小さいかめちゃんに一目惚れした夫。 

「あうう~これ、いくらでーすかー?」と涙目で聞いたに違いない。確信しているのは理由がある。結婚生活でこういう場面を何回か見たからだ。

 すごく大事にかめちゃんを飼っているのを見て、そして優しそうな目でカメちゃんを見るのを見て、この人は家族を大事にする人に違いないと直感した。

 そしてその直感は大当たりだった。

たくわんと刺し身


 日本食が大好きな夫、新しい味にチャレンジするのも大好きだ。

 カリフォルニア出身なので日本食も結構食べ慣れている。

 はじめて日本に来た時に1人で街を探検し、見るもの全て珍しく、写真を撮りながら街を練り歩いたそうだ。

 スーパーに入った夫はタクワンを見て大興奮したそう。 

「あれだ!カリフォルニアの日本食レストランの定食とかについている黄色い美味しいやつだ!!」大好きなアレ。

「これ、く~ださい」

 大喜びで長いタクワンを丸ごと買って、その場でビニールを剥きながらボリボリと歩き食いをしたそうだ。

「そうしたらね!半分も食べてないのに気持ち悪くなったんだよ!!」





当たり前だ。 

というか半分近く食べたんだ? 


 それに外国人だからすごく見られたと言ってたけど、それが理由じゃないと思う。

 ぐにゃった長い(たくわん)を丸ごとかじりながら歩いてる人。

怪しすぎます。


 確かに外国の食べ物は食べ方がわからない場合が多い。

 夫の母が日本に来た時に初デートに行ったしゃぶしゃぶ店に連れて行った。夫のママのことはマムと呼んでいた。

真ん中の鍋を見て

「お湯だけ!?」
「マム、ここにね、薄いお肉をスイースイーって洗うように入れるの」
「そうなの? びっくりした」

 またしゃぶしゃぶの食べ方を身振りで説明しているところに煮込む野菜がやってきた。
白菜、もやし、ネギが乗っている大きな皿を受け取ったマムはなんと

もっしゃ、もっしゃと食べ始めた。

「うわ~~~~~ストップ!それ鍋に入れるの~~ボイルボイル!!」

サラダだと思ったそうだ。

「味がないなと思った」と言いながら、もやしを食べていたのを今でも思い出す。


それから、夫は寿司と刺身も大好きだ。

つきあっていた頃

「お寿司大好き!!カリフォルニアでも、よく食べていたんだよ~!」

着ているのは桜の模様と寿司と大きく漢字で書かれたTシャツ。

うん、お寿司好きなのは見たらわかる。

 日本の新鮮なお刺身を食べさせたくて、結婚する前に和食のお店に行って刺身定食を頼んだ。
当時流行っていた和食ファミレスのようなところで、和テイストのお店に大興奮な夫。入り口で靴をぬぐのも大喜び。

 刺し身定食は、確かアジのような丸ごとの小ぶりのお魚がそのまま真ん中に乗っていて、周りにまぐろやイカのお刺身が並べてあったと思う。

「いただきまーす」と食べようとした瞬間、真ん中の魚の口が急にパクパクした。

「ぎゃ~~~」お店にとどろく野太い悲鳴。

「生きてる!これ生きてます!!!」

「日本の活造りっていうの新鮮な証拠なんだよ」

「だめ~かわいそう」

そしてなんと

「死んでください!死んでください~!」

思わず笑ったら

「ひどい」と涙目。

夫にはものすごくカルチャーショックだったようだ。

「あれは、本当にびっくりした。ショックだった」と今でも言っている。

 あれ以来用心している夫は、刺身を注文するときは写真をじっと見て(顔がついているか)を確認している。

それほど用心していたのだが、九州に行った時に、また遭遇してしまった。

顔のついた刺し身がパク~!!

「やめて~、また生きてる!」

「お刺身はまだいいかも、白魚の踊り食いっていうのもあってね…」

「やめて~」

どSな嫁大喜び。

それでも大好きなお刺身。
初対面の人に

「日本の好きな食べ物はお寿司とお刺身です。でも死んでいるのだけです」と言っている。
おかしいから、それ。

残念な夫の日本語 


 
 夫は日本に来る前に「はじめまして」を覚えたのだが、日本とアメリカは使い方が少々違う。

 アメリカの(はじめまして)にあたる「ナイストゥーミーチュー」は別れるときにも言うのだ。
 
 最後にもう一回握手して”Nice to meet you”と別れる。

なので日本語でも、「それではまた」と頭を下げる人に

 「はじめまして!!」と元気よく挨拶していた。


 言われた人は必ずぎょっとする。

 「間違ってるよ」

 「じゃあなんて言う?」

 「う~ん…お目にかかれて嬉しかったです。とかかな?

 「おメメにかかかれ…難しいよ!」

 「うーん、じゃあ、『じゃあね~』で良いんじゃない」

 それ以来、別れるときには誰にでも、そう目上の人にも

 「じゃあね~!!」

 違う。あっているけど、違う。

「ご家族の皆さんによろしくお伝え下さい」を
「かぞく、皆、よろしくです」

 近いけど、これも違う。

 夫の日本語、話す方は「あああ、惜しい」というのが多くて、通じるけど何か変だよ。というのが多い。何かが足りない、とか。

 これは私の英語も同じだけど、なんか多すぎ、なんか足りない。

 リスニングの方だけど、時々とんでもない勘違いもある。

 和食も大好きな夫はお正月はかかさずお節料理を食べる。 大好きな、黒豆、伊達巻、栗きんとん。
日本食材店で買ってきたお正月用品を冷蔵庫に片付けている時、夫に

 「栗きんとん多めに買ったよ」と声をかけた。

 「え?クリントン ?」

 「ち、違うよ!栗きんとん!台所!」

 「クリントン大統領?」

 なんでよ。





 話す方も、英語の文法そのまま日本語を入れて失敗というのが良くある。

英語は言葉の後にプリーズをつける。そうすると動詞で始まると命令形になる言葉でも柔らかくなるのだ。

例えば Sitシット(座れ)をプリーズをつけると(座ってください)に。

ちなみにSitは限りなくセットに近い発音です。
シットと発音すると(くそ)になるので気をつけて。

夫はプリーズとは丁寧な言葉、日本語で言うと(ください)と覚えている。

Eat please は食べてください。 
Drink please は飲んでください。

家族にも少しでも丁寧に話そうとする夫は、

「ご飯、ください」という使い方をする。
だが、息子になにか頼むとき大抵失敗している。

 電気消して、と言おうとして
「電気、ください!」

 宿題、しなさいは
「宿題、ください!」

 ゴミ捨てて、は
「ゴミ、ください!」

 極めつけは猫のトイレ綺麗にして、と言おうとして

 「猫のうん◯ください!」

 くださいって。ねこのって

 これが本当のシットプリーズ。

 お腹が痛くなるまで笑った。

「忘れないようにメモしておこう」と手帳に書いているとすごく悔しそうな夫。

「やめて!」

そこに(ください)つけたら完璧なのに。

マリッジライセンス


 23年前の日本ではまだ私たちは奇異な目で見られることも多かったように思う。
ただ、夫は日本でそれ以上に優しく親切にしてもらっていた。

例えばお店に入り
「こんにちは」というだけで
「あら~この外人さん日本語上手だわ~」とおまけしてもらっていた。

ずるい。

 私がアメリカでハローと言ってもハローと帰ってくるだけだ。誰もおまけをくれない。
助六のシャツを着てにこにこと「こんにちは」を連発する夫は多くの日本人から愛されてた。
ただ、結婚してから外国人であるがゆえの悲しいこともあった。
それは家を借りることが難しかったことだ。

(外国人お断り)と堂々と書いてある。(ペットお断り)よりも多いくらいだ。

 それまで優しくしてもらっていた外国人さんはすっかり落ち込んでいた。

 当時の日本では個人では見てもらえず、全員ひとくくりに(外国人)そしてお断りと続く。 
不動産屋さんも電話で小さな声で「でもね、良さそうな人ですよ」と言ってくれるだが、当時はかなり難しい状況だった。

 やっと見つけた家は大家さんが短期出張中の6ヶ月だけ契約の家だった。和室もある素敵な広い一軒家で私たちは手を取り合って喜んだ。
 一階はキッチンダイニング・リビング。2階は6畳2つ。真ん中に3畳の部屋があった、
夫は3畳の部屋をしげしげ眺め

「ここは?クローゼット?」

 ローマの休日のお姫様か?

 確かにその真中の部屋はあまり使いみちがなく、タンス置きの部屋になったので結果的には当たっていた。

 日本の家は確かに狭いし、夫は何回か頭もぶつけたりしたけれど、この家は2人暮らしに十分すぎるほど素敵な広い綺麗な家だった。

 和室が特にお気に入りで何も置かずに大事に使っていた。
たたみラブ。家具を置こうとすると
「ひ~なんてことを~!!」と。畳の部屋でも家具は置くよと言っても
「痛むから、だめ~」

 そんな感じで始まった結婚生活は最初は慣れずに戸惑うことも多かった。言葉の壁も大きかったし、文化の違いもお互い「なんでよう」と思うこともとても多かったように思う。
意思の疎通が出来なかった時は喧嘩にもなった。

 国際結婚は最初は何もかも珍しく甘い日々、長く生活していくうちに日々の細かいことで意見がくいちがったり、勘違いから喧嘩になったり、慣れない土地や文化に疲れたりする。
それでもお互いが歩み寄って理解できなくても、しようとする姿勢が大事ではないかと思う。

 米軍人と外国人(日本人であるワタクシ)の結婚は山のような書類をつくらなければならずに大変だった。 性病などの血液検査をして、指紋を取られ、逮捕歴の有無から精神疾患の検査とあらゆる検査もあった。

 今までの学歴職歴の履歴書を提出するのだが、一日でも隙間があってはならないと言われ困ったことも。

 アルバイトしてたり、何もしてなかった年もある。米軍側はその間テロ活動などしていなかったかなど調査しなければならないので「隙間は認めん!」と言うようなことをもう少しだけ丁寧な言葉で言われて書類を返された。仕方なく(近所の喫茶店でアルバイト)(家の仕事手伝い)なども書き込んだ。

今はどういうふうになっているかわからないけれど、私の時でもありとあらゆる質問が書いてある書類にサインして提出し、その間に面接もあった。

提出以降も受理まで6ヶ月くらい待つ。

 諸事情により早く結婚しなくちゃダメなの!ってな人はアメリカへ行っていた。ラスベガスに。そうすればあら不思議、即結婚。
軍の規定にかわりはないので、結局結婚後に山のような書類提出になるのかもしれないが。

私たちはゆっくり待てばいいよねと、のんびりしていたら

「はい、今日受理ね」とある日突然、マリッジ証明書をもらった。 

日本の婚姻届も同じ日にしたいと慌てて市役所に出かけて行った。そうしないと記念日がバラバラになってしまう。


 家を探したのはそれから。結婚式もそれから。
在日基地の教会での結婚式。チャーチで東洋の美女と西洋の美男子は結ばれた。(うははは、言いたい放題)

ウエディングドレスはアメリカのカタログでオーダーした。 サイズ6が大きすぎてお直し。サイズ6ってかなり小さめのMくらいです。 

 うわ~~ん!マイボディーカムバック! アメリカンな食事ですっかりサイズアップしてしまった今日このごろ。
日本で言う付き添いと言うか仲人というかそういう感じのブライズメイドは中学からのお友達、親友Sちゃんがつとめてくれた。

 当時は英語もわからない言葉が多くて、例の(病めるときも健やかなる時も)も英語だし、その後の誓いの言葉の

 ワタクシ〇〇は〇〇を夫として~というところを言わなくてはいけなくて、ド緊張だった。 ひ~~なんて声がひっくり返っていたはず。

 夕方からのパーティーは、やはり軍の中の施設で、仕事の後で軍服での出席者が多かった。しかもこの日緊急出動があって、(当時のお仕事は救命士)ビーパー(まだ携帯電話なかった、日本語でポケベル。これがビービーなってた)が鳴り、さーっと10人以上いなくなったりした。披露宴なのに!

 日本のお友達には特別パスを発行してもらった。そして披露宴といってもバフェスタイルのカジュアルなもの。基地の中のレストランからのオーダーだ。ウエディングケーキもオーダーしたが、アメリカのケーキが激甘かったことはいまだに語り草だ。

 そして招待した友人の、そのまた友人が来て、「おめでとう!!」と満面の笑顔でもりもり食事をしていた。
誰?
細かいことを気にしないようになったのはこの頃からかも知れない。


豆ショック


 食べるものに関してはお互いカルチャーショックが結構ある。

 アメリカにはレッドビーンズ&ライスという料理がある。この食べ物の写真を見た時にご飯が入っているぜんざいのようなものだと思った。 

「これきっと、おはぎみたいなデザートだな」と嬉しくなって注文した。
仮にデザートではないとしても、日本の豆料理はうぐいす豆にしろ黒豆にしろ甘い。

 しかしレッドビーンズはものすごく辛かった。

 どう見てもあずき!どう見てもぜんざい!

 当時の日本にはメキシコ料理のお店なんてなかったと思う。なので辛い豆なんて全然知らなかった。
ものすごい衝撃。

 とある国はご飯は甘い味付けばかりだそうで、そこの国の人におにぎりを食べさせたら、皆吐き出したそう。
わかるよ、その気持ち。

 物凄くショックだったけど、これは後ほど大好物になった。
メニューにあればオーダしてしまうほど。 

 そういえば豆といえば日本にも甘くないのあった。
日本の豆の代表、納豆だ。
私は大好物なのだが、外国人のほとんどが苦手だと思う。知り合いの日本食は全部大好き!!とアメリカ人も「納豆だけはちょっと…」と言う。

 夫も納豆を始めて食べた時にオーノーと悶絶していた。
まずにょーーんとをひくビジュアルに 
「ひ~気持ち悪い~」
そして匂いを嗅いで
「くさい~くさい~~」を連発。
真顔で「腐ってる」と言っていた。

 今でも実は苦手だ。でも
「ネギと辛子あったら食べられるかな」と言っている。

 私がレッドビーンズアンドライス大好物になったのと同じに、人間慣れればなんでもいけちゃうものだ。

これも一つの国際結婚の歩み寄り。
ちょっと違うか。

残念すぎる英語と日本語 かわいいも!!


 夫は英語の文法のまま、日本語にしてしまうことも多い。
例えば、英語では必ず最後につける言葉も日本語ではおかしかったり、英語で同じ言い方なのに日本語はたくさん種類がある。

ある日突然また面白いこと言い出した。

「この、人、かっこいい!! かわいい、も!!かわいい、も!!」
「なによ、かわいい、も!!って?」
「Cute tooだよ。 Too!!」
「日本は最後に(も)つけないんだよ」
「なんでよ?」
「なんでも!」
「あ~~~!!最後にも、って言った! も、って言った!」

「その(も)は、その(も)じゃないの!」
「じゃあ、その(も)はどの(も)? 」

もう、なにがなんだかわかんないよ。

やっとTooは最後につけないとわかったようですが、しばらく忘れて使っていました。

「おいしい、も!」
「高い、も!」

いきなり付け足される(も!!)はかなり面白い。


 本当は自分の失敗は書きたくない。と、いうか、速やかに忘れてしまう。自分の失敗は棚に上げる素晴らしい性格だ。

メモをつけることにした。わあ~!あっというまにいっぱいに!

 ある日なぜだか、Toadの話しをしていた。
私が「ん?Toadってなんだっけ?あ、亀だよね」
「ひえ~カエルだよ~亀って!…市民権の試験よく受かったね…」と言われた。

 そう、私はアメリカ人。カエルと書けなくてもアメリカ人。 カエルなんてフロッグしか知らん。

 Toadのスペルなんてテストにでないし、カメとカエルって近いし。

 日本は雨の言い方もたくさんある。アメリカも少しあるけれど、
ザーザー降りの日に

 「こういうのさあ、英語でCats and Rain って言うんだよね?」

 正しくはCats and Dogs。ちょっと古い土砂降りの言い方だ。

 夫はぎゃはぎゃは笑ってるが、あんまりおもしろくないし、惜しいし。

 雨もあがり、からりと晴れた気持ちの良い日に、夫は外を見て
「天気、きれいになっちゃった」
…お天気が良くなった。だよ…… そっちのほうがうんと面白いよ。

英語で1つの言葉でも日本語で言い方が変わる言葉にWearがある。

日本語は
帽子を(かぶる)
服を(着る)
靴を(履く)

英語だと洋服も靴も帽子もだいたいWearなのだ。
夫はこう言うのがすごく難しいと言う。

 それから、せっかく言葉を覚えたのに行動によって意味が違う時も。
例えば(Hot)は熱いですが、英語では辛い場合も(Hot)なので

冷たくても辛いものを食べている時

「これ!熱い!」

「熱くないじゃない」

「あついよ!!おいしい、も!!」

翻訳「これは辛くて、しかも美味しい」

ちなみにHotはスラングで(セクシーな良い女)と言う意味もある。

「あの女性、辛い!熱い!」とか言いませんように。

そして味付けが濃いものはStrongを使う場合があるのだが

「これ!つよい!!」

 おもしろいな。

 同じ発音のものはもっと困ってる。
有名なのは箸と橋。雨と飴。がある。な~んで同じ?と聞かれてもわからない。

 箸といえば昔の思い出、チョップスティック。

 結婚した当時夫が2階から

「上に来るなら一階からチョップスティック持ってきて~!」と英語で。
「スティックスじゃなくて、スティック?1本だけ?」
「え?もちろん一本でいいよ」

 何するんだろうと不思議に思いながら、お箸を一本だけ持って2階に上がった所、大笑いされた
理由がわからずムッとする私。

「なによう、持ってきてって言ったでしょう?」
「僕が言ったのはチャップスティックだよ~」とよく聞くとリップクリームだ。

箸はChopsticks
リップクリームはChapstick

箸一本持ったまま、笑った。てか自分で取りに来い。

 ちなみにChapstickは商品名で正しくはLip balm。

 それでは、私の過去最大の間違いを発表しよう。

  結婚した当時のこと。
買い物に行くのにリストを書いていた。
早く英語を覚えなくちゃと、英語で書いていました(ううう、けなげなかわいい妻)

『食料品リスト、できた。 後は、そうだ、フックを買わなくちゃ。 ええ?スペル…どう書くんだっけ??

「あ、HU、じゃないよね、英語だから、そうか、FUだよね、それからクッてところKUじゃないよね、ックって言う発音の英語はCKだよね!できた~」 

それ、ファック。

リストを見た夫の顔は何年たっても忘れられない。
「うん、うん、ミルク、卵、ファ~ック??」って。

 正しくはHook。こちらも中学1年生英語だと思う。
とにかく私はスペルが全然ダメなの。今だに食品リストはかなり怪しい。

 話す時もよく間違える。しかもなぜか下品な方へ下品な方へ。
あまり考えないで喋るので似た言葉は駄目だ。

Testifyテスティファイ証言  と
Testiclesテスティコーズ睾丸 を間違えたことも、ある。

法廷もののテレビを見ていて

「あ、今日いよいよ睾丸するんだよね!!!」

 夫は笑いが止まらず泣いてた。
テスティ…まで似ているし、惜しいし。
すごく惜しいけど、ど意味がわかってより危険な例。

「そんなに笑わなくてもいいじゃん、だって聞いたことあるよ?昔証言をするときに、あそこを掴んでしたんだって。それの名残で、似てる言葉なんだって!」
そう聞いた。「俺はこのタマに誓って嘘はつかねえぜ」とぐわっとつかむと。

「うわ~そんなの聞いたことない!絶対に誰かに騙されてる!」と言って、ますます爆笑してソファーからころげ落ちていた。

 私をだましたのは誰?

楽しい英語の勉強 男性器のスラング



 男性器のスラングはこれでもかというほど、たくさんある。

 何故か人の名前も多い。有名なのはジョンソン。世界中の可哀想なジョンソンさん。コメディアンのインスタントジョンソンも即席ちん◯

 まだいろいろな意味を知らないときに猫の名前にナッツとつけようと思っちゃった私。かわいい! ナッツ!

 夫と息子がすごく笑ってる。

「これ、僕のナッツですって言うの?」

「じゃあさ、じゃあ猫がいなくなったら近所の人に

 Have you seen my Nuts?(ぼくのナッツ見ませんでしたか?)っていうのお??」って

 ぎゃははは大笑い。

 ナッツの別の意味はタマでございました。



 英語も玉と同じくボールとも言うが、複数なのでSがいる。ボールズ。こんなことまで複数とかきっちりしなくてもいいと思うのだが、やっぱり2つだし。

 日本語の金た◯って言い方、どうだろう?あんまりだよねという話になり、夫は

 「あ!福袋っていいんじゃない?良い言い方じゃない?」

 すごい!!自分で日本の新しい言葉を作っちゃった!

「すごいじゃない!才能ある!」と褒めると

 調子に乗った、おとうたん。

「じゃあさ、じゃあこれは 『金卵』 !!」

……夫よ…それ、もう、発音しちゃってる……

ちなみにスペイン語でも玉のスラングは卵だ。

Huevos ブエボス。【卵もしくはタマ】




 チン◯に当たる言葉もたくさんある。

 日本の可愛いアニメのポケモン。
アメリカでは絶対に正式な名称「ポケットモンスター」って呼んではいけない。
これもちん◯の意味だから。 

 ポケットの中のモンスターって…。

 ポケモン、ゲットだぜって…。

 ポケモンって何の略か知ってる?ってアメリカ人にこのことを言うと絶対に受ける。
下ネタが好きでうけたい私はパーティーなどで必ず披露する。

 男性器のスラングの有名なものは DickディックとCock (コック)そしてPrick (プリック) 発音はかわいいけど、ものすごくひどい言い方だ。淑女の皆様は使わないほうが良いと思う。

それからこういう言葉に(Head)をつけて、なぜか喧嘩言葉になる英語の不思議さ。
このくらいなら使ってもいいかな?というのは

Butt Head 直訳は (おしり頭)「このやろー」くらいの意味だ。

使っちゃいけないのは…

Dick Head  もっと悪い意味で「このくそやロー」という感じだ。

以前基地の中で日本語を習ってるアメリカ男性が日本人と喧嘩して、ここはかっこよく決めよう、罵倒してやるぞと



 「あなたは!ちん◯あたまぁ~~~~!!!」と直訳して叫んだ。



笑われていた。

残念だね。

楽しい英語の勉強 女性器のスラング


 アメリカのスラングは罵倒語もたくさんあり、シモ系もそれはそれはすごい種類がある。さて、男性器のスラングについて前の章で書いたので、今日は女性器について。

 女性器についても、色々な言い方がある。

 スラングでない本当の言い方は vagina という。

 アメリカの発音ではヴァジャイナだ。これは公共の場でも使えるくらいの(まあ、あまり使わないほうが良い)言葉。

 スラングで一番有名な物はPussyプッシーだと思う。
Beaverビーバーというのもあるけれど、こちらの女性、サロンでヘヤーをお手入れしてアンダーヘヤーのない人が増えたせいか、あまり聞かなくなった。

 最悪で最も下品な言い方ではカントという言葉があるのだが、、日本語訳がないくらい悪い言葉なので、絶対に使わないほうが良いと思う。

 これは羊たちの沈黙でクラリスが初めてレクターに面会に行く時に囚人から侮蔑的に言われる。ドラマではゲーム・オブ・スローンズにもよく出てくる。たまに映画で出てくるとどきりとする。

 私の知らない言葉ももちろん山のようにある。

 土曜日の夜の我が家の楽しみはサタデーナイトライブ。
 毎週違うゲストで、政治ネタあり下ネタありでおもしろいのだ。

 先日88歳になるBetty Whiteがゲストですっごく面白かったけれど、コントで全くわからないのがあった。

 女性が3人延々と(Muffin)マフィンについて話してる。

夫と息子はヒイヒイと笑い転げてますけど、ちっとも面白くない。

「全然おもしろくないじゃない?マフィンってなんて意味?」と聞くと、これが女性器のスラングだった。

 それぞれマフィンを焼いてきて感想を言い合うのだが、言葉を引っ掛けてあり、わかったらすごく面白かった。思わず巻き戻してもう一回見た。 

 「私のマフィンが一番おいしそうよ」

 「私のマフィンはしっとりしてるんだから」

そこで88歳のベティーがマフィンを持って

 「私のマフィンは古くて硬くて…粉が吹いてるわあ」

 わかったら、大爆笑だ。

「私がチェリーマフィンを焼いたのは1920年だったかしらね?」

 Cherryは処女と言う意味のスラング。
もっとスラングを覚えないとコメディーを笑えないのだった。

可愛い言い方の【マフィン】大変気に入った。
日本語でもかわいい言い方誰か考えてくれないだろうか?



それ以来気をつけていると、結構映画にも出てくるし、レディーガガのポーカーフェイスのミュージックビデオの中にも「マイマフィン♪」とポン股間を叩いているじゃないか!!

そうだったのかああ~~!!何年もアメリカに住んでいてもまだまだ知らないことがあるなあと、また一つ勉強になったのだった。

スパルタ式アメリカ出産



 息子が生まれたのは基地の中の病院だ。 当時は妊娠用語も出産用語も本当にわからなくて、(海外で子供を産む本)を隅々まで読んだ。

 世界中どこでも赤ちゃんの生まれ方はだいたい同じだと思う(自然分娩か帝王切開)生まれてくる場所も同じだと思う。マフィン(女性器のスラング参照)からかお腹を切ってだ。ところが出産の用語がわからない。 

 ただでさえ不安なお産。 全員がアメリカ人でしかも軍人なので、きっとランボーな人もいると怯える日々だった。

 日本人妊婦そして基地で子供を生んだ女性が集まった時にいろいろな話を聞いてみた。
一番驚いたのは日本では痛みを我慢すると(我慢強い)と褒められるのに、アメリカでは怒られるというのだ。

 「言わなくちゃわからないじゃない、あなたの口はなんのためについているの!」って言われたのよ。 

全員ひえ~~とおののく。

「産んだらすぐに退院よ、1日よ」

全員ひえ~~。

 これは本当だった。なんと次の日に退院だ。疲労マックスでふらふらで家に帰った記憶がある。当時の日本は2週間入院で母乳マッサージを習い祝い膳まで出ると聞いて、すごく羨ましかった。

 妊娠中も数々のひえ~~があった。

 超音波は通常1回しかとってくれないのだ。 
日本では毎回写真をくれると聞いていた。映像にしてビデオでくれるというではないか!?

ずるい。

 それにしても1回って!夫が医療関係者ということで友達サービスでもう1回。たったの2回だけだ。
なぜ毎回写真を撮って、それをくれないのか聞いてみた。 

 「なぜなの?」と聞くと肩をすくめて

 「さあ?高いから?」

 え~~~~~? 

 「健康なら必要ないじゃないか?すぐに生まれてくるのに。それに高いから」

 やっぱりそれなんだ。

 こまけえことはいいんだよ、なアメリカ。 

 妊婦の体重制限はほとんどなかったので、これをいいことに食べに食べ太りに太っていった。

 家のそばにあったこともあり毎日ピザとアイスを食べ続けた結果なんと25キロ増で生まれる寸前はもっと増えていた。日本では絶対に怒られる体重増。 
 
 それはきっちり自分に返ってきた。 赤ちゃんが大きくなり生むときに大変だった。

 「ぎゃ~~なにかが、引っかかってるぅ~!!」と叫ぶと

 「なにか、じゃない。Babyだよ、はいプッシュプッシュ」こちらでは「いきむ」ことを

 「プッシュ」と言う。

 押し出す感じか?

 プッシュを繰り返し生まれた赤ちゃんは約4000グラムと大きかった。

 この出産の時は医者が少なく、先生は行ったり来たり。「あ、あっちが先かな」と隣に行ってしまった

 「ああ~行かないで!!」

 「イッツオッケー」なんて行っちゃった。

オッケーじゃねえ。カムバーック!!



 隣から赤ちゃんの泣き声が聞こえてきて「負けたあ」
しかし生まれそうで生まれない。だって引っかかってるから。

 夫はそばにいて手を握ってくれていたが、正直「触んじゃねえ」という気持ちだ。というかそれどころじゃない。痛い痛い生まれない。

そして医者は

「うん、スプーン使おう」

スプーンって!!スプーンて何??

 これは鉗子のことだった。鉗子分娩をすることになった。

 スプーンと呼ばれるのはサラダを取り分けるサラダスプーンに似ているからだと聞いたことあるが真偽はわからない。

 「なんでも良いから早く~!!」足をバタバタして、大騒ぎをしても怒られなかった。
先生罵声は浴び慣れてると見た。

 「オッケ~プッシュプッシュ」と言いながらスプーン、いや鉗子を手に近づいてくる。

 「その前にここ切るよ」と日本と同じく会陰カットをするのだが、麻酔なしでパツパツなあそこを切る。 


 ぎゃ~~~こ~わ~い~!!

 しかーし、バチンと切られた時はそれほど痛くなかった。 それどころじゃなかった。

 本当に痛かったのは鉗子を無理やりつっこんで、力任せに赤ちゃんを引きずり出したときだった。

 べり!っと絶対に何かが破れた音がして、その時の激痛は人生で味わったことのないようなものだった。

 出産を終えて医者が股間を覗き込んで「おお~これはいっぱい縫わないといけないな」 

 をい!おまえ様が力いっぱい引っ張ったんだよな?

 そうやって生まれた息子。顔に赤い鉗子のマークがついていた。

 夫はすぐに話しかけ赤ちゃんのビデオを撮り、私の顔も撮り(酸素マスクをつけて感動というよりも疲れきって呆然とした顔だった)医者が後処理として私のあそこを縫上げているところも撮り(やめろよ)ものすごく大喜びだった。

  お父さんとお母さんになった瞬間だった。


赤ちゃんはどこも同じだった。


 結婚して日本に家を借り、その後基地の中の家に引っ越した。そこで妊娠して出産、子育てをした。

 日米では子育ての方法はかなり違う。2人で相談しながら臨機応変にどちらもとり入れた。

 アメリカは赤ちゃんと夫婦の部屋は別にするのだが、私は断固(川の字)の日本式子育てにこだわった。部屋に1人ぼっちでドアを閉めるなんて考えられない。お昼寝はベビーサークルで、モニターで声が聞こえるようにしていた。

 夫はすごく心配性でありとあわゆる危険防止グッズを買い込んでいた。
アメリカのベッドはかなり床から高いので、夫が起きた後はサークルなどで転落防止の柵もつけていた。

 子育ての方法はかなり違うが、赤ちゃんの行動はほぼ同じだろうと思う。

 今日は息子が1歳前後の赤ちゃんの時のことを書こうと思う。

 6ヶ月くらいまでは泣く、おっぱい、寝る、出す、の繰り返しだと思うが、その後(自我の芽生え)と良い言葉があるが、要するに知恵がつき好奇心が生まれてきて、親にとっては(いたずら)が始まる。

 ある日リビングで

「あ!!あ!!や!!や!!よ~~~!!」
と言いながらシュッシュ、シュッシュとティッシュを箱から出していた。
ひらりひらりと空に舞うティッシュ。 
一枚ずつ丁寧に引き出し

「あ!」シュ!「や!」シュ!「ホ~~!」シュ!

 山になっていくティッシュ。

あはは…きれいだねえ。 
おもしろいのでやらせておいた。しかし、次のお仕事は絵のついた紙。
お財布を掴み、お札を「あ!」シュ!

「それは、やめて!!」

 なぜ(白い紙)は良くて(絵のついた紙)は駄目なのか分らない息子、大泣きだ。

 絶対にやりたい息子。ある日また超早いハイハイで私の財布を盗み、座ってばら撒き始めた。

「あ!」シュ!「えい!」シュ!「……あり?」

2枚ほど撒いた所で不思議そうにお財布を見ている。
息子よ、(絵のついた紙)はあんまり入ってないのだよ。

 つまらなかったのか、この日からやらなくなった。
学んだんだね?こうやって大人になっていくんだね?
そして、紙ばらまき系は進化していく。

 ある日、本棚の文庫本に目をつけた。表紙を1枚1枚はがしながら、本と表紙を床に捨てていた。アメリカの本には表紙がないのだが、日本の本には(皮)が付いていることを学んでしまった息子。

 根を詰めて作業する姿は職人のよう。座り込み一冊取り出し、皮をむいては後ろへポイ。また一冊取り出し、皮をむいては後ろへポイ。

 途中で、「ふー」なんてため息まで。
仕事に満足するとまた猛スピードハイハイで次の仕事場へ。ものすごく働き者だ。 

 基地の家は古いけれど、アメリカ風の作りでかなり広くて目が行き届かない。
キッチンで料理するときはおんぶしたり、イスに縛り付けて、いえ、ベビーチェアーに座らせていたけれど、このくらいの年齢からは本人は猛烈に拒否する。
えびぞりが危ない。

 なので、キッチンの下の方の引き出しにわざとタッパーばかり入れたりして足元で遊ばせておく。

 直ぐ側で料理しながら後ろを見るとタッパーを出すお仕事。うん、いいね。

 出す、並べる、しまう。出す、並べる、しまう。

 飽きるので時々入れ替え。プラスチックのもう使わないフライ返しなど。

ある日ペタンと床に座って、また作業に没頭していたので安心して料理をしていた。ほんの数分で振り返ると…

 高い高い、缶詰タワーが揺れていた。
違う扉を開けて缶詰を取り出し、積む。 どんどん積む。
自分の背丈くらいになり、ゆらありゆらり。アメリカの缶詰はかなり大きいので危ないのでこれは取り上げ。

 アメリカ人の友達の娘さんはやはり1歳ごろトイレ中の壁にナプキンの裏のシールをはがし張ったそうだ。
壁一面の白いナプキン羽根つき。
根を詰めたね、立体のシールだね、楽しいね。

 モダンアート?
親はぎゃーーっと叫んだ後、大笑いして私も含めた友人に楽しそうに話してた。

 どの国でもお母さんは大変だ。悩んだり手探りで子育てをしているのだ。

国家機密たれ流し

日本にいた当時夫は緊急救命士をしていた。しかも救急車ではなく飛行機で患者さんを運んでいた。

 主に基地から基地へ設備の整っている場所へ緊急患者さんを運ぶ。夜間の急な呼び出しもある。素晴らしい仕事だと思うが、赤ちゃんを抱えて一人でとても大変だった。
ある日緊急の呼び出し、そして

「数日帰れないかもしれない」とフライトスーツに着替えながら言うので
「え!なにかあったの?どこに行くの?」
「それは、国家機密で言えないんだ……」
「え?国家機密? ふ~ん」

夫は真面目で、すごく仕事熱心。非常に厳しい軍人だ。職場では家でのおもろい顔と全く違う顔なのだ。

「ごめん、行ってくる」飛び出してく夫
「うん…気をつけてね」

わかってはいるけれど寂しいなあ。危ないところなんだろうか。

 翌日、まだ赤ちゃんの息子を膝に乗せて

「おとうたん、どこかな~、いつ帰るかな~」と話しかけていた時
ふとテレビを見るとニュースで

「Y基地のクルー、ロシアに到着しました」と夫の飛行機が映っている。

え~~~~~~~国家機密??テレビでやってるけど?

毒蛇に噛まれたロシアの要人を運び…なんていう内容だったと思う。

「おとうたん、ロシアにいるよ~~」

日本のテレビ局は、よくこういうのをやるらしい。機密もれもれだ。
テレビに教えてもらった!帰ってきて早速

「ロシア寒かった?」と聞いた時の驚いた顔は忘れられない。

国家機密(Classifird information) 仕事柄使うことが多いこの単語。 

Y基地の地下でUFOを作っているという都市伝説を聞いたので車の中で聞いてみた

「し!!それは大変な国家機密だ!」とふざけて使ったりもしてた。
え?ふざけているんだよね? 怖いよ!

 この頃、夫は基地の中の大学で日本語入門のようなクラスを取っていた。私の方はESLという英語が母国語ではない人のためのクラスを取っていた。
同じ日に時間差でクラスがあった日は、赤ちゃん息子を連れて行って、夫が連れて帰ったりもした。
懐かしい思い出だ。
Y基地で息子を出産して4歳まで駐屯していた。夫は出張が多くほぼシングルマザーのように暮らしていた。ある日ついに本土移動の命令が来た。

 次の勤務地、なんとアイダホ。 チーン。
ものすごいど田舎だと言われた。

「次はどこに行くの?」と聞かれて
「アイダホのマウンテンホーム」と言うと、皆横を向いて
「アイム・ソーリー(お気の毒に)」と言うのだ。顔色が青くなっている。

当時私は夫の故郷である北カリフォルニアしか行ったことがなかった。
サンフランシスコ、オークランド、そしてすごく綺麗なモナクリーク。すごく素敵なところだった。
だから「お気の毒ってってなんでよ?」と不思議だった。まだまだ【あなたの知らないアメリカ】があることをこの頃は知らなかったのだ。

アイダホは360度地平線だった。

 今のようにインターネットもほとんど使えず、アイダホ情報もほとんど入らないまま、出発の日を迎えた。

 日本からバスが出るとき、たくさんお友達が集まってくれた。親友夫婦も小さい娘さん2人連れて駆けつけてくれた。笑顔で「バイバイすぐまた日本に来るからねー」でもバスが出た途端べそべそ泣き始めた。そして親友ちゃんも崩れるように号泣したそうだ。ごめんね。

 その日は隅田川花火大会でなんと成田を飛び立った飛行機から下を見ると花火がいくつもいくつも上がっていた。
普段絶対に使わない言葉なのに「祖国!!」とまた号泣。日本を離れた日。

「でもアメリカできっと楽しいことあるよね」楽天家の私は結構楽しみにもしていたのだった。
「アメリカの田舎どんな感じかな? 映画で見る郊外型のきれいな感じかな?」

そして、アイダホの空港へついたら

本当に、
なにも、なーんにも、
なかった。

小さな空港からタクシーに乗り基地の場所をつげたら1時間半くらいかかるとのこと。運転中の景色が砂漠、ずっと砂漠。 

「この辺りはそうなんだ、へー映画みたいだね」なんて言いながら一眠りして1時間くらい立ったら、景色が同じだった。

 地平線まで続く一直線の道。両側は砂漠だった。いつまでも果てしなく。
右も左も後ろも地平線。360℃地平線。

正面を見るとほんの少し丸みをおびていた。

お母さん、地球は丸かったよ。

悲しいほど何もない大地。




基地の中も同じような砂漠。家の外から見える景色がこれだ。
        


        夏




        冬



      夕暮れ


 365日砂漠。冬は雪が降るだけ。

 荷物は3ヶ月つかないと言われ、砂漠の中の何もない家の中で3人で身を寄せあって暮らした。

 とりあえずキャンプ用の空気入れて使うビニール製ベッドを買って、その上に3人で寝てた。

 1人が寝返りをうつと2人跳ね上がる、そんなベッド。

 家の中にも何もない、家の外にもないもない。そんな、ないないづくしのアメリカ生活。

 せめて、小鳥でも愛でようと、かわいい餌台を購入して外の木にぶら下げた。すぐに雀を小さくしたような小鳥がたくさん来た。

 「うふふ、かわいいなあ」

 そこへバサーっと降りてきたのはでっかい。 なんと小鳥を掴んで飛び去って行った。ショックで固まる私。 なんという野生の王国。

小鳥の餌台を作ろうとして、鷹の餌台をつくっちまっただよ。

2度めにバサーそして、また捕まる小鳥。
ガラーッとガラス戸を開け
「こら~!!!」と叫ぶとびっくりして小鳥を離して飛んでいった鷹。
「勝ったわ、鷹に」とアイダホ人になった瞬間だった。

 マウンテンホームの生活は最初は珍しかったものの、あまりの野生というか、
ど田舎で、日本が恋しく泣く日も多かった。

自分で選んだ人生とはいえ、アメリカ暮らしがまさかこんなだったとは。うわーんと泣くと遠くでコヨーテがウオーン。 

うわーん
ウオーン

うわーん
ウオーン

見事にハモっていた。

 コヨーテが多くて、猫は外に出してはいけないと決まりがあった。そう、理由は食べられるから。犬だって危ない。

 家の塀の向こうに馬が歩いていたので「のら馬か?」と思ったら基地の中なのに馬に乗っている人がいた。

 風の強い日はタンブルウイーズと呼ばれる大きな枯れ木の塊がゴロンゴロンと転がっててくる。西部劇の世界。
そして西部劇の世界そのもののカウボーイという職業が多かった。

 職業が、カウボーイ。

 基地の小さいお店に行く道もカチカチの砂漠で、ボッコボコに穴が空いていて危ないのだった。ホイッスルピッグといってプレーリードッグのような動物がたくさんいた。

「うわあ~かわいい~~~」でも繁殖期を過ぎ一斉に穴から顔を出しピーピー鳴き出すと、つくしのようで気持ち悪い。


 ここに数人日本人が居て仲良しになった。1人は基地ではなくさらに田舎に住んでいるといっていたので「え?もっと田舎?」と思わず言ってしまった。

「うん、もう本当に何もないの!鹿とかムースが多いんだけど、でっかい蛇も出るんだあ」

きゃ~~

「昨日見た蛇はお腹が膨らんでたからお食事中だった」

きゃ~~

そして近所に住んでいるアメリカ人ともとっても仲良くなった。外でコーンの皮を剥きながら世間話をした。都会ではなかなか経験できない。

近所の人達は娯楽がないマウンテンホームで浮気ばかりしていた。

とうもろこしの皮を剥きながら

「2軒めの旦那と裏の奥さんができてるんだって」
ふーん。

「5軒めの妊娠中の奥さん、本当の父親は違うらしいよ」
ふーん。

なかなか興味深い会話だ。この頃には会話には困らない程度だったので、積極的に井戸端会議に参加してた。

 それからこの地区はアジア人というか白人以外居ない地区だった。基地の中は別だけど、一歩外に出ると…
見られる、見られる。
遠慮しないでがん見だった。
そして白人の夫も見られていたのは髪の毛が黒っぽいからだった。

 ドイツ系の子孫がほとんどのこの地区はほぼ全員金髪なので「え?髪の色が!!黒い?」と驚かれます。
私はあまりにも見られるので気分を害していたけれど、ある日いつものようにジーっと見つめられ、強面のおじさんがそのままスタスタとこちらに向かってくる。
ひゃー怖い!アジア人出て行けとか言われたらどうしょう。とビビっていたら

「どこから来た?日本?」とニコリともしないで聞く。
「Yes Japan」と逃げようとしながら言うと、すっごい笑顔になって

「わーーー日本人はじめて見た!!すごい!!握手してください」と言われコケそうになった。

 その時にジロジロ見るのは人種差別だけではなく「珍しいから」というのもあると学んだのだった。

アイダホはアメリカ人でもカルチャーショック

 
 アイダホについたのは1999年の夏だった。

 空港に降りた瞬間から驚くことばかりだった。特にマウンテンホームは、私の知っているアメリカから100年位遅れている気がした。乗ったのは飛行機じゃなくてタイムマシンだったんじゃ?と思ったくらいだ。

 2時間ほど何もない、砂漠の真っ直ぐな道。 よく映画や絵葉書で見かける。こんな所あるんだ?と思っていた、そんな所に住むことになってしまった。

 風が吹くと黄色い砂がゴーッと舞い上がり、人間くらい大きい枯れ木の束が転がってくる。遠くに走るはコヨーテ。空には鷹。果てしなく続く砂漠道。

 ある日バイクの集団にも遭遇した。なんとヘルズ・エンジェルスだった。
それからでっかいトラックも多かった。砂漠の道を砂嵐を巻き起こしながら爆走するトラック。

「絶対にトラック追い抜かないでね!」
スピルバーグの「激突」にあまりにも似ている世界だった。

途中のガソリンスタンドで飲み物買おうと車を降りたら、でかいトラックの運転手ばかり。小さいアジア人は非常に珍しいのか、ここでもジロジロ見られた。

人種は白人のみというくらい他の人種を見かけない。そしてほぼ金髪で青い目だった。そして、何より驚いたのは目があってもニッコリしたりハローと言い合ったりしない人が多いのだ。夫もショックを受けていた。

「私がアジア人だから、すごいね差別。にっこりもしないでジロジロ見られるよ」というと
「僕もだけど」

本当だ。夫もジロジロ見られている。「ハーイ」というとぎょっとしてる。
こんなアメリカはじめて。

ついてすぐに近くのレストラン、というかアメリカ定食屋な雰囲気の場所にはいってみた。

「これにしようかなポットローストにサラダつけてください。ドレッシングはイタリアンで」と夫が言うと
「はあ?」

 なんと夫の英語が通じない。2回言ってはじめて「オーオーオッケー」とやっと通じた。

「カリフォルニア英語が通じない! おもしろいね。言い方が早過ぎるんじゃないの?」
「うん、びっくりした!日本で日本語話すより通じなかった!」

アメリカもかなりアクセントがあって北と南では随分違う。でもアイダホはかなりカリフォルニアと近いので安心していたのに。同じ国なのに州で文化もかなり違うことを学んだのであった。

 北カリフォルニアは特にフレンドリーな人が多くて、とにかく話しかけられる。
(目があったらにっこり、それからちょっと話をする。)というのがアメリカ文化だと思っていた。
夫の方がカルチャーショックを受けてた。

 この時の夫の勤務は救命士で日本では飛行機だったが、アイダホではER勤務で救急車に乗っていた。病院勤務は夜勤も多くて、私はなんの荷物もない部屋でどんどんホームシックになっていった。

息子もまだ4歳になったばかり。さすがに小さいテレビだけ購入してマンガを見る日々。そして砂漠を散歩する日々。

この2年半は辛かったけれど、アメリカ人の友達もたくさん出来て、なんとなくアメリカの土地に根付く基礎になったようなき気もする。

アイダホでの友情

 この世の果てのようなマウンテンホームではご近所と話が唯一の息抜きだった。
特に仲良くなった人たちは隣りに住むアメリアそれから向かいのジョリーン。

 金髪美人のジョリーンとは特に仲良しになったが、ロスアンジェルスの荒れた地区出身の彼女の英語はFワード満載だった。

 ジョリーンの娘と私の息子は同じ幼稚園に通い出した。歩いて10分もかからない場所だけど、冬はマイナス15度にもなるのでジョリーンが車で送ってくれていたのだった。
後ろに2人子供を乗せているのに

「でね、ファッキンマックの新しいファッキンバーガー買おうとしたら、「もうないぜ」なんてファッキン店員が言うのよ!ファッキンむかついたわよ」

「ジョリーン!後ろに子どもいるよ?」
アメリカでは子供の前では絶対に使ってはいけない言葉です。
「あ、そうかごめんごめん!ファッキンど忘れするのよ!あ、いけね!ファック!!ぎゃはは」
美人なのに台無しだ。

 毎日そんな話をして本当に「生きた英語」に触れ合っていた。
隣のアメリアがゴシップクイーンだったのだが、なんと彼女自身あちこちの男性と浮気をしていた。

 ジョリーンとアメリアは大の仲良しだったのだが、ジョリーの旦那ともできてしたらしい。このことはずっと後で知ったのだが、こんなアメリカ昼メロドラマのようなことが本当にあるんだなあと、完全に部外者の私は興味深く話を聞いていた。

 それから皆がはまるのがタトゥー。時間ができるとあちこちにタトゥーを入れていた。本当にやることがないんだなあ。
娯楽といえばキャンプ、魚釣り、それから私は嫌ですがハンティング。男達は鹿撃ちに行く人が多かった。
夫は射撃得意だが、動物大好きでハンティングは絶対に行かなかった。


 カリフォルニア出身の夫と東京出身の私。基地育ちの息子。どんどんアイダホと距離ができてきた。日曜日になるとボイジーという首都、タウンまで1時間半かけて砂漠の荒野を運転していく。
このタウンだけが唯一の楽しみだった。洋服のショッピング。レストランに行って帰る。楽しみはそれだけ。

 一番つらかったのは和食が全く食べられなくなったことだ。味噌さえ売っていないアメリカ。こういう場所とLAやニューヨークと比べてはいけない。
同じアメリカ生活でも随分違うと思う。

 日本人数人で月に一回食事会をしていた。日本から送ってもらった食材を用いて和食を作り皆で食べるのが、本当に楽しみだった。
味噌を送ってもらった私は、豚汁を作った。ポークはあるけれど、アメリカには薄切り肉がないのだ。なので塊をスライス。大根もこんにゃくもないのでキャベツや人参を入れて。お豆腐は紙パックのものがあるので、それを薄く切って油であげて油揚げにして入れた。
すごく喜んでもらえた。ある人はパンでぬか床を作ってつくったぬか漬けをもってきた。ある人は魚をフードプロセッサーでつぶして油であげたさつま揚げをもってきてくれた。日本人嫁たちはそんなふうに創意工夫して暮らしていたのだった。

ERの仕事なのに…

 苦しいアイダホ生活だったが、マウンテンホームの一番良い所は事件が全く無かったことだ。

 確か当時殺人事件は一件もなし。新聞にはいつも(鮭が川に帰ってきた!)とか(マクドナルドに強盗!50ドル取られる)が大見出しになっていた。

「ここは平和で、それがいいよね」と夫に言うと
「人が少ないだけじゃないの?」
確かにそれもあるかも。犯罪率が少ないのではなく、人がいないのかも。

 夫はこの時はERで救命士として働いていた。こんなのんびりした場所柄なので仕事は暇だった。ニューヨークから異動してきた同僚は

「ニューヨークと同じ職種か??」とびっくりしていた。

そこでは撃たれた人などでERはいつも満員だったそうだ。マウンテンホームは皆で待機室でコーヒー飲んで談笑していることもあった。


 事件は少なくても事故は起こる。救急車で出動ということもあった。
ある日緊急呼び出しが。慌てて飛び出して行くと、なんと

「エミューが逃げた、捕まえてくれ」
ええええ~~? エミュー?

牧場のようなところでダチョウに似てるエミューを飼っていたそうで、それが逃げた、と。
砂漠な荒野のハイウエイの一本道を

走るエミュー、追うおとうたん。

走るエミュー、追うおとうたん。

まさかERの救命士がエミューを追っかけて走るハメになるとは。




「いろいろなことがあるね、面白かった」と言っていた。こういう仕事のほうが合っているんじゃないかと思ったりもする。

ひどい!と思われるかもしれないが、ERはやはり人の生死に関わる仕事なので助けられなかった患者さんのことを思って泣く姿を見たこともある。

特にY基地では飛行機での緊急の患者さんを運ぶ仕事だったので、新生児も多くて親御さんのことを思ったらたまらないと言っていた。見かけは強面の軍人さんですがとても優しい人なのだ。

 のどかで平和とはいえ、アイダホのこの地区は本当に住みにくいところだった。
冬はマイナス15度になり、夏は50度近く上がる。砂漠の枯れ草が自然発火して火事になったこともあった。
そして雨が殆ど降らない。私が居た2年半で雨が降ったのを見たのは2回位でしかも1日中ではなく10分位だった。
ちょろちょろっと。

 私は花が大好きなので、基地で無料で配られた花をもらってきた。毎日毎晩たっぷりの水が必要なのだが、少し水やりが遅いとカリカリに枯れる。あっという間にドライフラワーに。

ジョリーンはベジガーデン作ると張り切っていましたが、野うさぎが多くて、できかけた野菜は食べられてしまい、ファッキンうさぎ!と怒っていた。ちなみにアイダホの野うさぎはでかくて可愛くない野獣だ。

 そんなふうに雨が降らないところなので、砂嵐がやってくる。 お天気の良い日に(というか、お天気が良いのは毎日)2階の窓を開けていた時

「は~気持いい~」と言いながら外を見ると、遠くの方からごごごごと音がして黄色の壁が押し寄せてくる。
まさに砂の津波。ごろごろと枯れ木の玉も転がしつつやってくる砂嵐。

「やばい!」

すぐに窓を閉めると、次の瞬間人間くらいの大きさの枯れ草の玉がドカンドカンと家に当たっていく。車もガリーガリーとこすられていく。小さい枯れ木玉は車の下に溜まっていき、取り出すのが大変だ。

嵐の去った後の家の中は細かい砂だらけでそれがすごくいやだった。 電化製品はかなりダメージを受けていた。当時ブラウン管のテレビの中にも砂が溜まっていた。

大変な生活だったけど、その経験があるので今なんでも耐えられるのかもしれない。
それでも当時は精神的に苦しく、どんどん鬱のような状態になっていった。


浮気と夫婦交換 同時テロ

うつ状態を救ってくれたのはやはり友達の存在だ。 基地の中に居た数人の日本人妻友達。それから近所の奥さんたち。

夫の仕事は皆、空軍軍人なので、出張も多く、何もない田舎に残される妻たちはアメリカ人であろうとノイローゼになる人もかなりいた。特に外国から来た人は鬱もひどかったと思う。命を断ってしまった悲しいニュースもあった。

 ジョリーンもLAからアイダホ生活でうつ状態になり薬を処方してもらっていた。家が近かったのと、それからジョリーン、アメリアとは家も近く子供同士が同じ年だったので毎日誰かしらの家に遊びに行く仲だった。

 子供の誕生日パーティーには日本人アメリカ人どちらのグループも呼んだりして、そういう時はとても楽しかったのを思い出す。広い海苔が手に入ったので巻きずしの作り方を教えた。甘い卵ときゅうり、ツナを巻いた巻きずしはしばらくブームになった。

 ジョリーンはなにもしないで過ごすよりも、と空軍の仕事をすることを決意してトレーニングを6ヶ月受けることにしたの。5歳の娘はその間旦那さんが見ることになった。 我が家含めご近所中が娘さんを預かったりして助け合いをした。

 その6ヶ月の間にジョリーンの旦那とアメリアはできてしまった。当時は誰もわからなった。ジョリーンが出張から帰っきて、泣きながら

「帰ってきたら別れたいって」と電話が来た。私も思わず泣きながらジョリーンの家に走って行って話を聞いた。

ジョリーンはFワードばかり使うような女性だけど、本当に夫を愛していて純粋な女性だったのだ。 他の人たちは全く悪ぶれなく浮気をしていた。

 スインガーと呼ばれる夫婦交換のカップルも居た。
もちろん私たち夫婦はそういう世界とは無関係なので聞くたびにひえ~~~とびっくり仰天していた。
そんな話を聞いて以来その夫婦達の顔を見られないというか、もっと見てしまうというか。へええええ

 夫ママが遊びに来た時にその話をしたら

「浮気と夫婦交換かあ、そういう人結構いるよね、で、あなた達は誰からも誘われなかったの?」
マム、何言ってるの~?

「うん、誰も!でもね、もてないんじゃないよね、真面目だってことがわかってるんだよね、断るってわかってるんだよね」夫も「そうそう、そうだよきっと」

意外とのんびり見える田舎の方がこういうこと多いんだなあと思った。
そんなのんびりしたアイダホでしたが、緊迫した一日があった。


 911同時多発テロ

 2001年9月11日

 あの日は息子を学校へ送って行き、また砂漠の一本道を急いで帰った。当時の楽しみのテレビのために。カップルが登場して番組内で大げんかする(ジュリースプリンガーショー)という非常に低俗な番組にはまって、それを見るために急いで帰ったのだ。

 テレビをつけると映っているのは飛行機が飛んでいる所、あれ?と思ってチャンネルを変えるとどの局も同じ映像で、ビルにぶつかる映像。
新しい映画のプロモーションかなと思ったのだが、すぐに本物のニュースとわかり驚いたのを覚えている。

 あっという間に2つ目のビルの映像が。 慌てて夫に電話すると、
「今聞いた所、非常事態だよ」
どうしたら良いのかわからず、とりあえずニュースをずっと見ていた。
学校から早退の連絡はないし、午後になるまで待って迎えに行くと、お母さん方はその話題で持ちきりだった。

 この日先生がたは低学年の息子たちにとてもわかりやすく説明してくれた。当時まだ小学1年生だった。
「先生がね、悪い人がアメリカをアタックしたって。だからお休みになるかもしれないからって」そんなふうに言っていた。

 親への連絡として「あまりテレビ映像を見せないように」との連絡もあり、すぐに全アメリカの学校に連絡が行ったようだった。これは本当にアメリカの良い所だと思う。

 その日ペンタゴンも襲われたことから、どこの基地も標的になりうるという非常事態が出されて、とても怖いと思った。思わず空を見上げたら、雲1つない青空で、こんな平和な景色が一瞬で変わることも起こりうるのだと。

 今だから言えるけれど、翌日この基地からも半分人が消え、NY入りした。その日を境に私の気持はアメリカに寄り添うようになった気がする。

 もう限界だったアイダホ生活。日本に帰りたい。そればかり思っていたが、ここは夫の国。そして嫁いだ国なのだ。
アメリカを傷つけられて、はじめてとても愛していることに気がついたような気がした。
皮肉なことに数ヶ月でアイダホからまたY基地への異動が決まった。
911の前、特に冬の間は限界に近かったように思う。氷に閉ざされた土地での生活は辛く、夜ふらふらと家を出て行ったこともある。
「日本に帰る」と言いながら、歩いて。
その時は息子の声ではっと我に返り、慌てて家に戻ったけれど、ソファーに座ったまま何もできないような日もあり、鬱になりかけていたのだと思う。

いつもなにかしら変なことを言って大笑いしてウルサイ妻がおとなしい。おとなしいどころか塞いでいる。
夫もこれは大変だとかなり真剣に異動手段を考えてくれたのだった。

ちょうど元のフライトの職場にポジションがあったので移ることができた。
また日本に行けるなんて!!と大喜びした。
大喜びした日本で乳がんが見つかりすぐにまた米国に来ることになるのだが、今思うとここの生活のストレスだったのではないかなと思う。
それほど、この時の生活は私には過酷だったのだ。

ネバダで大事件

2001年の冬。 アイダホから横田への移動が決まった。
引越し業者が入り、箱詰めが始まった。私たちは嬉しくてそんな作業も苦にならなかった。

「嬉しそうだね、次はどこに行くの?」地元の業者さん。
「日本なの!私日本人なの!」
「そうなんだ!俺日本語のタトゥーあるよ」と腕をめくるとそこには

【きちがい】と彫ってあった。
「…Crazyって意味だね」
「そうだよね!良かったよ!合ってた! 」

合ってるけど、合ってない……っていうか変。
【狂気】とかだったら、もっと良かったね、おにいさん。

 そんな野暮なことは言わず引っ越しの用意をし、楽しく荷物を送り、いよいよ出発。
夫の母のいるカリフォルニアに寄ってから日本へ行こうと、車でアイダホからネバダを通りカリフォルニアに行くことにした。 8~10時間くらいだと思う。このくらいなら車で行くことも多い。

 ネバダ、カリフォルニアと聞くと暑いイメージがあると思うが、山脈もあり冬のこのあたりは極寒だ。大きな国道は毎年凍死者がでたり、閉鎖になる。 突然、気候が大荒れになる。

 この日はとても良いお天気で、少しでも遠くまで行こうと5時間ほど運転のあと、あるネバダの町で休憩をして、さてまた出発というときに、なぜか息子がこの町で泊まると大泣きしはじめた。 
それまでは全く普通で疲れてもいなかったのに、なぜか
「絶対に行かない!!」と泣くのを、わがまま言わないのと無理に出発したのだが、このときこの町に泊まればよかった。

 私と夫は夜も更けていないし、まだ疲れていないし、もう少し先まで進むことにしてしまったのだ。
子供の直感を信じるべきだった。
ここから30分も行かないうちに、なんと、あっという間に吹雪が襲ってきた。

 荒れ狂うという言葉がぴったりな吹雪。とにかく真っ白で何も見えない。上から横から雪が襲ってくる。突風で下からも拭き上げる。 
前のほうで事故があったようで、車が全く進まなくなった。

 ものすごい風でたたくように降りつける雪というか、もう氷の塊だ。
少しドアを開けると、突風でそのまま飛んでいきそうになる。 タイヤもどんどん埋まっていく。

「さっきの町まで引き返そう」
これが大失敗だった。
どこもかしこも真っ白で道が分からない。ユーターンをしたとたん道路を外れてしまった。
がたんと音がして道路から少し落ちて、そのままどうにもこうにも動かなくなった。

今のようにどこでも通じるような携帯電話もなく、大慌てでパニックに。 外は真っ暗で真っ白。 ごうごうと荒れ狂う天気。

 あっという間に車のタイヤの上のほうまで雪で埋まっていく。
夫は外に出てタイヤ周りの雪を掘っていたが、全く動く見込みがない。

「このままでは閉じ込められる、なんとかするよ。前に停車してる車まで歩いてみる」
と夫は強風の吹雪の中を出て行った。かなり前方に車が止まっていた。 
このときにはもう閉じ込められて数時間たっていた。 食料品も水分もなかった。
1日くらいなら、なんとかなっても、この雪がやむ気配はなかった。

それにガソリンがなくなったら、暖房も付けられない。このときの恐怖。 誰か、息子だけでも助けて欲しい。

 夫は他の車が止まっている前方まで歩いて行き、途中で見えなくなった。
心配になり、ドアを開けて見ると、氷の塊のような雪が顔にバチバチ当たってひっぱたかれているようだった。

「誰か」と口を開けたとたん、口いっぱいに氷の塊が入ってきて話すこともできない。
これは癌になる前の話で、このとき初めて(死)を意識した。

恐怖で震えながら、ついに

「神様!!!助けて!!!」と思った瞬間。
その刹那に隣に車がキューと止まった。この車はどこから来たのだろうと不思議だった。

「どうしたの?」とのんびりした声がした。
「車が道から落ちてしまって、動けなくて、それに夫が外を歩いて助けを求めに行って…でも無事か分からないのです、助けてください」
と口に氷が入りながらもなんとか伝えた。
「それは大変だ、こっちの車に移って」と私と息子を乗せてくれた。

 息子を覆うようにして飛ばされないようになんとか、その方の車へ。
車の中には奥様と小さな黒い犬。 それから大量の聖書が置いてあった。

 その方はなんとチャーチの神父だった。
「あ、聖書ね、適当にどかして座ってね」すごく気さくなご夫婦。
「この辺はとても危ない場所で毎年、車が埋まって凍死する人がたくさんいるんだ、危なかったね」と

 そしてかなり前方まで歩いていた夫も拾ってくれた。やはり途中で前かがみになったままだった。車に乗り込み、真っ青でガタガタ震えていて、手も足も感覚がなかった。 これでは自分たちの車まで戻れなかったと思う。

 それほどの寒さなのに、その方は薄着で(確かセーターも着てなかった、ネルのシャツ)
「前方の様子を見てくるよ」とひょいひょいと車を降りてしまった。
数分後、あまりにも心配で
「あんな格好で大丈夫ですか?」と聞くと奥様はにっこりと、
「He is OK 慣れてるからだいじょうぶなのよ」とおっしゃった。凍死するような吹雪なのに。
そしてまた、ひょいひょいっと戻ってこられて
「前のほうに車を引っ張るトラックが止まってるからそこまで行く?」と連れて行ってくれた。
トラックの方に乗り移り、そのトラックが車を引っ張ってくれて、無事に次の町まで行くことができたのだった。

 お礼は何回も言ったけれど、それほどの命の恩人の住所も聞いていないどころか名前さえ覚えていない。

 助けて!!と思った瞬間に(キーッ)と横に車が止まった、あのタイミング。

 私は今でも時々、あの方は神様だったのではないかと思っている。 

 あまりにも気さくなご夫婦だったけど、本当に人間だったのだろうか?と
あれは、現実だったのだろうか?とも。 
夫も息子も覚えているのでもちろん現実なのだが、すごい経験をしたと今も思っている。
神様に命を助けられた日。絶対に忘れられない。心から感謝している。
 命からがらたどり着いたネバダの次の町で一番近いモーテルへチェックインした。
古くさい、きしむベッドに倒れこんだ時に

「うわああベッドってなんて気持ちが良いんだろう!」と感動した。

 モーテルなんて狭いとか汚いとか今までどれほど文句を言ったのだろうかと反省した。
暖かく、食事や飲み物もあり、なによりシーツの掛かったベッドがある。もうそれだけで十分だと。この時の気持を何故覚えていられないのかなと思う。
今はまたホテルに泊まると「あー狭いねー失敗だねー」なんて。人間って忘れっぽい。

 カリフォルニアに到着し、夫ママに事の顛末を伝えると
「キャ~~~~怖い!!あなた達がポプシコ(硬いアイスキャンディー)にならなくてよかった~!」と大騒ぎだった。本当に危ないところだったけど
ポプシコって!

「きっと神様だと思う、助けてもらったの!」と言うと「うん、そうかもしれないね」と言ってくれた。

 カリフォルニアでしばらく過ごした後、サンフランシスコ空港から飛行機に乗り、成田空港へ到着した。
雨の降らないアイダホに慣れていたので、空港を降りた途端、冬なのに湿度をすごく感じた。迎えに来てくれた基地の友人の車に乗り込み、東京の町を眺めながらY基地に到着。ここからしばらく基地内のホテル暮らしだ。
本当に帰ってきたんだなあ、と胸がいっぱいになった。

やっと帰れた日本で失望 アメリカの給食

やっと帰ってきた愛する日本
「早めに車を買おう」と友人のYナンバーの車を借りて中古車に乗り入れると
「Yナンバーには売らないよ!」と言われた。すごくショックを受けた。以前に何かトラブルがあったのだと思うが、夢にまで見た愛する日本で最初の買い物はこんな残念な結果になってしまった。
この異動の条件の一つに長い出張があった。異動届のような書類を見ながら話し合った。

「何回か出張になるかもしれないけど、それでも日本に帰りたい?」
「帰りたい!」

 その頃はアイダホで別居して日本に帰っている日本人妻もいたくらいで、日本に帰れるなら出張なんて良い!と思っていた。
だが、実際に夫と離れて小学1年の息子との生活も、大変だった。

 基地内のアパートメントに引っ越した後、荷解きもできずに出張に行ってしまった。私はぐちゃぐちゃの家で毎日箱を開ける日々。こちらの引っ越しの箱はとんでもない大きさで、人間が立って入れるくらいだ。

 それを開けて中身を出して、箱をつぶして地下にあるゴミ捨て場まで持っていくのだが、人間大の畳んだ段ボール箱はすごく重くて、片手は子供の手を引いてヒーヒー言いながら下ろした。
なぜ子供を連れて行くのかというと、基地のルールは厳しく6歳の子供を置いて外に出てはいけないのだ。
日本では当たり前の(お留守番)も(鍵っ子)も児童虐待で逮捕される。

 それから学校も最初は馴染めなかったので、私がボランティアとして教室に入るようになった。子供はスクールバスで学校へ。その後基地内を巡回するバスで学校へ行き、教室内のサポートをした。先生からのレターをコピーしたり、採点をしたり、手のかかる子供の世話をして先生が授業を続けられるように、などがボランティア内容た。一番大きな仕事は通訳だった。社会科見学は基地の外で、そこで通訳をした。忙しいけれど充実した日々だった。

 しかし、毎日の荷物の整理と学校の仕事でくたくたになり、ある日体調を崩し倒れてしまった。
母が近くに住んでいたけれど、テロの数カ月後の基地内に簡単に入ることができなかった。やはりここも異国なのだった。

 倒れてベッドから起きられなかった時、息子はびしょびしょに濡らしたタオルを額に乗せてくれてくれた。
ほとんど絞っていないタオルで水が垂れてくる。それからコップにジュースをついでくれた。表面張力突破寸前までついでいるので、バッシャバシャと豪快にこぼしながら持ってきてくれた。

「首に~枕に~垂れる水が気持ち悪い~」と思いながらも、その気持が嬉しくて

「ありがとう、すぐ治っちゃうよ!」と言うと、さらにぬいぐるみを2つ持ってきて私の両脇においてポンポンと軽く叩いてくた。そして、当時アイダホ生活で日本語が怪しくなっていた息子は

「だいぼうじゅよ、だいぼーじゅ」(翻訳 大丈夫よ、大丈夫)と言ってくれた。

もっと小さい頃に息子が熱を出した時に私がしていたことだった。意外と覚えているものだ。それからポエムまで書いてくれて、それは今でも大事に額に入れて飾ってある。

 2回めの基地の中の暮らしはシングルマザー状態も多く、こうやって倒れたりもしたが、楽しい日々でもあった。
小学校1年生の息子にお父さんのいない寂しさを味あわせたくないと思い、映画に連れて行ったり、日曜日はブランチに連れて行ったりした。
なので、息子のこの頃の記憶は楽しいものが多かった。

 学校も日本人ハーフの子どもたちが多くて、とても喜んでいた。 日本文化のクラスもあったり、先生が少し日本語を教えてくれたり、なによりお弁当でおにぎりを持ってきている子どもたちがいてすごく嬉しそうだった。
アイダホでおにぎりを持っていた時に「なんじゃそれ??」「おえ~!」とと何人にも言われたていた。アメリカ人の子どもたちの定番はピーナッツバターとジャムを塗ったサンドイッチにリンゴやミニニンジンが申し訳程度についている。
行った学校全部、お弁当でもカフェテリアで注文しても、どちらでも良かった。
アメリカの給食はカフェテリア形式で、日替わりでメインのハンバーガーやホットドック。チーズマカロニやビーンズのサイドをトレーに乗せる。
日本では「嫌い、食べられない」という食材を無理に食べさせたら、アレルギーがあって…と言う事件もあった。私も苦手なものを食べられなくて遅くまで残された記憶がある。

 アメリカで驚いたのは嫌いなものは食べなくても良いということだ。ある子供は中のホットドッグのソーセージだけ食べて、パンもサイドもザーッとゴミ箱に捨てていた。
大量に捨てられる食べ物を見て、自由な国とはいえ、これはこれで間違っているのではと思う。

 そして、なぜこんなことを知っているかというと、ボランティアをしていたこともあるが、親もカフェで子どもたちと同じものを食べる事ができたからだ。確か当時、子供の給食は一日1ドルくらいで親が来て食べる場合は3ドルだった。
これはマウンテンホームの幼稚園でもそうで、夫も行ったことがある。どんなものを食べているのか親としては知りたい。 いつも数人親がきて一緒に食べていた。 

ちなみに味はとってもまずかった。

なんでも「おいしい」と食べる夫でも「これはまずい~」というお味。 
だめでしょ!幼稚園でそれは。
なので、お弁当を作る日もありましたが、ランチャブルといってクラッカーとハムとチーズがセットになっているものもよく持って行った。こういうのを(手抜き)といわれないのはアメリカの良いところだ。

 それから朝食があったのも良かった。働くお母さんは早めに子供を学校に連れていって、子供は朝食をそこで食べる。これはもしかしたら軍人ママも多かった、基地内の学校だったからかもしれない。
毎日のようにボランティアをして子供の様子を見られたのはとても良かったと思う。

乳がんになりハワイへ

夫不在が多かった在日基地生活、ある日突然終わりが来た。

 私の乳がんが発覚した。

 この基地では詳しい検査と治療ができないために、ハワイの病院へ移ることになった。
マンモグラフィーを受けたのが金曜日。土曜日に飛行機に乗れと言われて、なんとか月曜日にしてもらった。
子供は小学校2年生で、すっかり学校にも慣れていたが、ある日突然ハワイに連れて行かれて、そのまま引っ越すことになった。

 乳がんはステージ3Cの進行がんだった。10年生存率は20%だと言われた。 

ハワイのオアフ島で治療がはじまった。 繰り返される手術。抗がん剤、放射線治療。辛い治療は数年続いた。この時の家族のサポートは私の生きる力になった。 心から感謝している。

 夫は常に励ましてくれて、なんとか私を笑わせてくれようとしてくれた。
左胸切除手術をしたのだが、

「胸が1つだなんて、こんな体になるなんて」と自信をなくす私に、笑いながら
「1つで十分だよ!2つもあったらセクシーすぎるよ!」とか
「3個よりいいじゃない」とか。
 その内に心がほぐれてきて少しづつ笑えるようになっていた。 息子もこの時期私のことが心配で精神的に安定していない時期もあった。夫が根気よく話をして、一緒に遊び、本を読み、出かけたりしてくれた。

 ある日、息子が「今日の絵を描くよ~」と画用紙を広げて書いた絵は夫と息子が満面の笑顔で凧揚げをしている絵だった。
その絵の笑顔を見て、息子はもう大丈夫だと思ったのを思い出す。

 通常オーバーシーズと呼ばれる他国への勤務期間は3年か4年で他の場所に移動するかどうかを決めるのだが、ハワイには6年間住んだ。ハワイはアメリカですがアラスカとハワイはオーバーシーズ扱いになるようだ。
3年経った時に沖縄勤務などの話もあったのだが、医者は私のカルテを見ると
「なにかあったら、すぐに対処できないわ、また戻ってくることにならからもう3年伸ばしたほうが良い」と良い、留まることに決まった。

 ハワイと言ってもワイキキから遠く離れたところだった、ここでもとてもカルチャーショックを受けた。本当にアメリカっていろいろ違うんだなあと思う。州の1つ1つが違う国のようだ。 

 アイダホ国とハワイ国はとても違う場所だった。

住んでみてわかったハワイ

ハワイ国は2つの地区に分かれていた。

 観光客が来る綺麗なエリアとロコの貧しいエリア。田舎の方に行くと日系の人がたくさんいるのだが、もう日本語は話せない。私達が住んでいたところも名前はSuzukiやYamadaで、顔も日本人風なのに日本語は読めないし書けない。なんだか不思議な気がする。
それからハワイアンの人たちは結束が固く、日本人もアメリカ人も嫌いと言う人も多かった。

 特に子どもたちは頑なで、いじめの対象になるのが(肌が白い)(勉強ができる)
特に白人はハオレと呼ばれて嫌う人も多かった。これは本土とは反対の差別だ。
肌の色が白いアメリカ人そして日本の血を引く息子はつらい思いをしたと思う。
こういうのも住んでみないとわからないことだ。

 家と夫の職場の間に湾があった。遠くに見えるのに道路をぐるっと回らなければならず、通勤に一時間以上かかっていた。ハワイの道路は日本よりも渋滞する。
ある日閃いたおとうたん。

「カヤック買って、海を渡る」
「ええええ~~??仕事に行くのに?」
「海を超えたら10分でつく」
「確かにそうだけど、大丈夫なの?」
「許可書を取ればいいんだ」
そういう問題じゃなくて~。

「だって、泳ぐのは禁止なんだ」
禁止でよかった~泳ぐ気だったんだ~。

やる気出したおとうたん。
すぐにカヤックを買い、海を渡り、仕事に行って、何日かは大喜びだった。

「すっごく早いよ、10分だよ。ああ~なんで最初から思いつかなかったのかな~!」
ですがある日青い顔して帰ってきました。

「サメがいっぱいいた!」

その日以来カヤックはガレージに眠っている。

ハワイ島でも、ウミガメが目の前にあらわれて、びっくりして押してしまった夫。

「押したの?」「だって、びっくりしたんだよ~」
ウミガメは怒っていたと思う。

 アイダホは地平線な荒野、ハワイは海に囲まれた島。 文化も全く違う。言葉は英語だけど、アクセントもかなり違う。ちょっと日本語と似てるようなところもあった。(だよね?)みたいなときに、語尾に(ヤー)とつけるんですが、日本人としてわかりやすい。

 どちらも同じアメリカなんだと思うとおもしろい。現地の人は(アメリカ)だとは思っていなくて、あくまでも(ハワイ)だと言っていた。ハワイでの生活は闘病期間も長かったけれど、日本食材も手に入るし、私にはとても住みやすいところだった。

 ハワイの日系三世と日本からの旅行者は同じ日本の血なのに全く違う風貌だ。
ハワイの紫外線にいつも晒されている肌、食事の違い。それから英語の発音のせいか、口元や顎のあたりがかなり違うような気がする。

 徹底的に違うのは体格だ。日本からの旅行者は華奢で色白なのですぐわかった。綺麗できちんとした洋服、細い腰まわり、ビーサンではない、ちゃんとした靴。そして猛烈に白い。
ハワイの地元の人は絶対にビーサンだ。バッグはシャネルやルイヴィトンでも足元はビーサンだ。不思議だ。決まりがあるのか?

 私はハワイで太り、肌も日焼けして、あっという間に現地に馴染んでしまった。服も楽なのでほとんど袖なしのハワイアンドレスを着ていた。
ワイキキで買い物をしていたら、日本の女の子たちが話をしている声が聞こえた。

「ねえ、あのおばちゃんが今手に持ってる服、良いよね」ふーん、どこのおばちゃん?と顔をあげたら、ばっちりと目が合った
私だったよ。
絶対に現地に昔から住んでいる日系人と思っていたに違いない。しかも日本語わからないと思ってる~。

(顔をあげたけど、何言ってるのかしら~?)な小演技をしてレジでもかたくなに英語を通して、ソーっと帰ってきた。
というか、なんで?私何も悪くないよね?ちょっとむくれたハワイのおばちゃん。

 ハワイアンの友人も少しづつ増えてきて、ある日結婚式に招待されたこともあった。
「ハワイ式の結婚式なんてどうしたらいいの~?」と夫に聞くと「じゃあ、出席者に聞いちゃおう」と電話をかけて

「着ていくものはやっぱりハワイアンドレスとアロハシャツが良いの?それから髪につける花は……」といろいろ聞いた。すると、なんとその人すごく驚いて

「え!! ハワイアンだと思ってた!!」
とハワイアンに言われてしまった。
やっぱりね、だよね、腰回りだよね。

 どこに住んでも、なんだか地元に溶け込んでしまう。
「この街出身です」みたいな顔になっていく。もともと国際結婚と海外暮らしがあっているのかもしれない。

 どうしても溶け込めない日本人妻達もいた。日本人としか付き合わないで、日本語ばかり話す人。そして、夫の国なのにアメリカの悪口を言う人。そういう人同士はグループを作っていた。
そしてハワイでは日本人妻同士の喧嘩もよくあった。私も苦手な人が何人か居た。
アメリカ人やハワイアンの友だちを作って遊びに行けばいいのに、もったいない。

 私は自分が知らない世界を知ることがとても楽しい。

2017年10月1日日曜日

おけけ

夫は英語の文法のまま、日本語にしてしまうことも多い。

 例えば、英語では必ず最後につける言葉も日本語ではおかしかったり、英語で同じ言い方なのに日本語はたくさん種類がある。

ある日突然また面白いこと言い出した。

 「この、人、かっこいい!! かわいい、も!!かわいい、も!!」

 「なによ、かわいい、も!!って?」

 「Cute tooだよ。 Too!!」

 「日本は最後に(も)つけないんだよ」

 「なんでよ?」

 「なんでも!」

 「あ~~~!!最後にも、って言った! も、って言った!」

 「その(も)は、その(も)じゃないの!」

 「じゃあ、その(も)はどの(も)? 」


 もう、なにがなんだかわかんないよ。

 やっとTooは最後につけないとわかったようだが、しばらく忘れて使っていた。

 「おいしい、も!」

 「高い、も!」


 いきなり付け足される(も!!)はかなり面白い。

 日本語のスラングは落とし穴がいっぱいある。

 子供が小さかった時、目はおめめ。 手はおてて。と言っていた。

「おてて、洗おうね」というふうに。

なので、夫も

「おめめ赤いよ、眠いねー」なんていう風に使っていた。

そして、ある日息子の髪が乱れているのを見た夫は大きい声で

「おけけが!おけけがぐちゃぐちゃだよ!!!」

夫よ、それは違う方の毛だな。

「おけけは、アンダーヘアーのことだよ」

「な!なんで?? 手をかわいく言うとおてて、目を可愛く言うとおめめ。なーんでおけけだけいやらしいですか??」

そうだね、不思議だね。

かわいい赤ちゃん言葉が、なぜにいやらしく変化していったのか。夫はどうしても納得行かないのだった。

 


チーンとお尻英語

ハワイにはよく夫ママが遊びに来てくれた。 クリスマスやお正月を一緒に過ごすことが多かった。
私が乳がんに罹り、まだ闘病中だった頃にクリスマスに来てくれた。
いつもたくさんプレゼントを持って。

「これはチベットで使われていて、病気を治してくれるんだって!!あなたの為に探して買ってきたのよ!」
「え?そんなのあるの?わあ、ありがとう」
と袋を開けた出てきた物は仏壇にあるチーンと鳴らす金属でできたボウル。

チ~~ン

ついてた(棒)もおいてあった(座布団)も同じだ。

マム、これ、絶対に違う…… 

「お店の人がチベットの病気を治すヒーリングだって言ったのよ、CDも買ってきたのよ」
CDはなんと延々チーン、チーン、チーン、時々チリリーン。

ええええ~?なんか騙されてるっぽい。 
説明した。

「これはね、日本では亡くなった人のために仏壇というものを置くんだけど、お線香をあげるときにチーンってならすの、これ全く同じものだと思う」

「え~!亡くなった人のためのもの…」
「あなたの病気を治すために探したのよ、なんて言って開けたら、これ~!」

ちょっと、シーンとなった後、爆発的大爆笑になった。

「ごめんごめん、知らなかった~知らないわよお!でもルーツはそこから来ているのかもしれないよね」
「そうかも、魂を癒すような感じになったのかな?」

 調べてみないとわからないが、正式名称は(鈴 りん)というそうだ。
Googleで(お仏壇でチーンと鳴らすもの)と皆さん検索していました。良かった、知らないのは私だけかと思ってた。

 CDがあまりにも延々チーンチーンと鳴ってて、しかもそれを気に入ってかけるので、やめて~と。

 夫ママはアジアの怪しい感じのお店が大好きで、奇妙なスカーフやインセンスもよく買っていた。
そしてなぜか私や母に(日本風の変なもの)を買ってくれる。
私の母(日本人)にサムライと書かれた侍の絵のついた手提げバッグとか。

「いや~!なにこれ!!」と母はよく叫んでいました。今考えると夫のスケロクTシャツのセンスは遺伝だ。

 お仏壇といえば、夫も日本食材店で

「この花綺麗だから買おうか~」と花束を手にとった、
「ちょっと、それ、違う!お仏壇用…」
「え~わからなかった!白と黄色の菊が入っていて綺麗だなと思ったんだ!」

 確かにわからない。日本人だから菊イコールお仏壇のイメージだけど、外国の人にはそういうイメージはないと思う。
日本食材店にはお盆の時期はこういうお花やお供えのお菓子も売ってた。

 一番驚いたのは、ある知人
お仏壇を収納用に、しかもワイン入れにしていたのだ。

「こんなに良い家具が捨ててあった拾ったんだ!」って。え~~~!!
確かにお仏壇は両開きの扉がついてる、小さい家具。

 説明したけど、アイドントケアだって。別に~って感じで。知らなければいいのかな?こういう感覚はわからない。

 それから驚いたのは(墓場)のイメージは怖いとか暗いではなくて楽しい場所なんだそうだ。

 「楽しい~イメージ??なんで~~」
「芝生があって綺麗だし、子供が遊んだりするよ」

何年アメリカに住んでいてもびっくりすることはまだ出てくる。

おしりな英語

スラングのお話

 アメリカにはそれはそれはダーティー(いやらしい)系のスラングが多い。同じくらい罵倒語もある。
おしりの言い方もかなりあるのですが、Assはかなり悪い言い方だ。
お尻って言うニュアンスじゃない(ケツ)です。

 ある日、夕食のときにふと「ねえ、Bad Assってどういう意味? 忘れちゃった」と聞いたら(というか家族で夕食の時の話題ではない、我が家はわりとこんな風)

「たしか意味があったよね、悪いケツじゃなくて」と聞くと『タフ』って言う意味だだった。、『タフな強いやつだぜ』みたいな感じだ。

「じゃあどうやって使うの? He has a bad ass? と聞くと、 No...He is a bad assだよ。
と餃子を食べながらAssを連発。 

 意外とこういう言葉知らないなあって思って

「じゃあ、日本語でさあ、けちな奴って感じでケツの穴が小さいっていうんだけど、英語はちがうよね? スモールアスホールなんて聞いたことないもん」

Ass Holeはよく映画の中で聞くと思う。 『くそ野郎』なんて感じのメッチャ悪い言葉だ。 紳士、淑女の皆様はお使いになりませんように。

 しかも、Ass holeは 日本語の「あっそー」に発音そっくりなのだ。 
ハワイの観光地できれいな日本人ツアーの人達が「あっそ~!あっそ~!」と連発していてドキッとする。  

『ケツの穴が小さい』は、なんとtight ass  Tightはきつい、硬いという意味。
『ケツが硬い』ほ~~~なるほどね。

基本は似ているんだな。 Tight=けちは知ってますが、ここにもAssつけとる~とか笑いつつ味噌汁ごくごく。

「アメリカ人はどれだけ尻が好きなのよ」と私。 
「日本語だって尻が青いってあるじゃない」と夫。
「あ、じゃあ尻が青いって英語でなに?」と聞くと

『He ie Green』だって。 

緑!! 惜しい~青じゃないんだ!しかもそこには尻つかないんだ!
食事中は3人でこうやって日本語英語で盛り上がることが多い我が家だ。

日本から親の呼び寄せをする場合

次の異動地はロスアンジェルスに決まった。

 ハワイの家を引っ越してロスアンジェルスに来る前に、日本で夏休みを過ごすために妹の家に1ヶ月居候した。不景気な時期に3人も押し寄せて来て、妹の旦那の怒りが爆発し、ついに後半は大げんかになった。失意のどん底のままLAに到着した。

 この時に母は妹夫婦と暮らしていたのだが、やはりお互いが限界に達して母も家を出ることになってしまった。

 そんな事情があり(親の呼び寄せ)をすることになった。
これはアメリカ在住者が家族をアメリカへ呼び移住権を取ることなのだ。

 母は終戦後「これからは英語の時代だ!」とすぐに英語学校へ通い基地で長く働きていたので英語もかなり話せる。前から母を呼び寄せたいと思っていたが、長く暮らした日本を離れて外国暮らしは嫌と、首を縦に振ってくれなかった。
夫もいつも「ママ~アメリカに来ればいいじゃないか、一緒に暮らそう」と言ってくれてた。やっと母も決心してアメリカへ来ることになった。

 まずは家探し。LAは家賃がものすごく高いので、予算内でなかなか3部屋の家が見つからなかった。ハワイも高かったけれど、軍から出る家賃の補助金でぎりぎり足りていまた。LAは小さめのアパートメントでも20万円以上の家賃で、3部屋のアパートはかなり足が出てしまった。

 それから母が来るときにうっかり片道の飛行機チケットを買って送ったら、
LAに到着してから「入国できない!」と電話がかかってきた。往復のチケットを持っていなければアメリカに入国できないそうだ。
すぐに飛行機会社に問い合わせて、帰り用の仮のチケットを購入して空港カウンターに送り、やっと入国ができた。

 すぐに軍で夫の扶養家族の書類を作り、IDカードの申請もした。
だが、なんとアメリカに住むために必要な永住権。いわゆるグリーンカードは実の子供じゃないと親のスポンサーになれなかったのだ。 このことは全然知らなかった。
それまでは夫が母のスポンサーになれると思いこんでいた。スポンサーになれるのはアメリカ国籍保持者のみなのだ。

「……え、ちょっと待てよ。 私まだアメリカ国籍取ってないよ~~」私は永住権の保持者で国籍はまだ取っていなかった。

 永住権とは(ずっと住んでもいいよ、でも市民じゃないからな、政府の仕事はさせないよ)ということ。それプラス(アメリカ国民じゃないと親呼べないからな)ということだ。
こういう時に肝が座ったおっさんに変身する私。

「まかせとけ~今から国籍取る!いつかは取ろうと思っていたんだもん。これから勉強して最短コースで取る!」
「そんな、娘に国籍まで変えさせて、悪いよ、ここにいられないよ」と母が言うので
「いいよ、親のためならナニ人になってもいいよ!」と自分では感動的な良いこと言った!と思っていたら、
「あ、じゃあナニ人がいいかな?インド人とか?なんちゃって!」

……ふざけてる場合か? 本当に悪いと思ってないな。

そんな話をしつつ、オンラインなどでアメリカ国籍の取り方を調べはじめたのだった。

アメリカ市民権の勉強

 市民権の取り方の流れは、申請書類を記入して移民局に提出し、移民局からの通知で指紋採取を行い、書類提出から数カ月後にインタビューと筆記テストを受ける。
インタビューでは英語での会話能力、それから自分のビザ関連の資料について質問され、英語の読み、書きのテストがある。 
また、アメリカの歴史、政治に関する基礎知識を試すテストも行われる。 
合否の結果はその場で知らされ、合格者は宣誓式の通知を郵送で受け取る。そして、指定された日に指定会場に出席し、帰化証明書が発行されてアメリカ市民となる。申請料は675ドル(当時)

「うわああテストが歴史と政治い。日本語だってわからないのに、どうしよう」 
オンラインで問題を見てみると難しい!! やばいよやばいよ~と言いつつ、もう一回よく見ると【書類提出から数カ月後にテスト】と書いてある。

「なんだ、数ヶ月もある。勉強すればいいじゃーん」と根が楽天家の私は考えたが、何かが引っかかる。数カ月後……

 あ~!特別なビザとか持ってきていない母、6ヶ月しかいられないはず。ま~に~あ~わ~ない~。ビザを持たずに来た場合その期間を過ぎると違法滞在になり最悪の場合国外追放。きゃ~。

 LAには日本人用の無料新聞が何紙もある。そこに載っている(無料弁護士相談)に電話をすると「この場合は大丈夫だと思います」というお言葉でやっと安心して勉強に取り組むことができた。
国籍を取ることには夫は賛成で、喜んでくれた。そしてアメリカ人の友達は口をそろえて

「え!そうなの!おめでとう!エキサイトするでしょう!?」という。
感覚が違う。なんとなく祖国を捨てるような気持でウエットな日本人的な感覚だったのだけど、「おめでとう~」なことなんだ。

 本当に移民の国なんだなあ、そして(アメリカ人)であることに誇りを持っているんだな。そういうのは素敵だなと思った。
それから国籍を取ると名前を変えられる。

「いっそエリザベス・メアリー・ローズなんて感じの、こってこてな名前にしようかな」というと、夫は
「好きにしてもいいけど、それはちょっとないよね」息子も大反対。母も
「そんな名前絶対に呼ばないからね」と評判悪いのだった。つまんないな。

アメリカ市民権勉強方法

市民権のテスト内容は、大きく分けて3つある。
読み、(Reading)
書き、(Writing)
口答による歴史と政府のテスト。(Civics Questions)

Reading Vocabulary  64単語
Writing Vocabulary 75単語
Civic Questions  100問

(読み)と(書き)はびっくりするくらい簡単だった。 特に(書く)は苦手なので安心した。

問題はCivic Quetionss これはかなり難しい。 なんせ100問もある。
この中からランダムに10問がでて、そのうち6問以上正解で合格だ。

私は指紋を取りにいったときにもらえる問題集についてるCDを聞いてとにかく丸暗記することにした。
それから似てる問題をまとめた。たとえば答えが同じ問題。

Who is Commander in Chief of military? (軍の最高司令官は誰ですか?)
Who signs bills to become laws?  (法案を決まる際誰がサインしますか?)
Who vetoes bills? (誰が法案を拒否しますか?)

この3つとも答えは the President (大統領)

答えが同じでまとめる。数字の暗記物をまとめる。

How many amendments does the Constitution have?(憲法はどのくらい改正しましたか) 答えは27

The House of Representatives has how many voting members?
(下院議員には何名の投票メンバーがいますか?)答え 435

人の名前を暗記するもの

Who wrote the Declaration of Independence? (誰が独立宣言を書きましたか?)
答え Thomas Jefferson (トーマスジェファーソン)

Who is the name of theVice President of the Ynited States now?(現在のアメリカ副大統領は誰ですか?)
答え Joe Biden (ジョーバイデン)【当時】

まとめるとわかりやすい~、いいねいいねと良い調子で丸暗記!
でも全くわからない単語も出てきた

the Constitution コンステチューションなんかは、ああ~見たことある~確か憲法?だっけえ?

Emancipation Proclamation なんかはもうお手上げ、発音も出来ない。
「な~にこれは~??」 (答え…奴隷解放宣言)

なのでYahoo翻訳ページを利用させてもらった。文章だけでなく、そのサイト丸ごと翻訳してくれる。でもかなり怪しい。

例 When is the last day you can send in federal income tax forms?
ヤフーさんの訳
 「いつ、あなたが連邦所得税で送ることができる最後の日が、形である?」

形である?ちと怪しい。夫の日本語のほうがわかるかもしれない~。

でも雰囲気でわかればいいので、助かった。時々クスクス笑いながら読んでいくと。

Yahooさんの翻訳

(何が、現在アメリカ大統領の名前です?)名前です?答えが

(小浜大統領)
漢字にしちゃったよ。

アメリカン市民権テスト当日!

ついにテスト当日。

 いろんな国の人が待ってる待合室で待っていると次々名前が呼ばれる。
すごく緊張して待ってたら、怖そうな白人のおじさんが出てきて「あの人だけはいやだなあ~」って思ってたら、みごとその人に名前を呼ばれてしまった。

 ガガーン!見るからに不機嫌な感じ。

 小さい部屋で2人になって書類を見てる様子は刑事の取調べのよう。 
映画に出てくる勤務20年のハマーサイドの、口の悪い暴力デカみたい。
うわ~ん、こわもて刑事!怖いよう。

 緊張マックスで宣誓をする。右手を上げて「絶対に嘘を言わないことを誓います」っていう映画に出てくるあれだ。
緊張のあまり頭も真っ白になって、何か聞いてるんですが聞こえず、、絶体絶命。 そこで私なんと

「ぶはは~」と吹きだしてしまった。 
こわもて刑事、ぎょっとして
「どうしたの?」

「あんまり緊張して笑ってしまいました。すいません」と言ったら

「OH!!ダイジョブよ~~」とそこだけ日本語で言ってくれて一気に緊張が解けた私。ああ~おとうたんみたいだ、ナンダ、良い人だったよ。

読み、書き、口答試験6問全部パスしたので、そこで終わりった。一番の難関突破!!ふひい。

確か6問目に(現在の副大統領は誰ですか?)と言う質問がでた。
一瞬うっと言葉につまってしまった。

「え?バイデン…なにバイデンだっけ~~??」と5秒位。デカは一緒に息を呑み心配そう。 とりあえず苗字言っとけ、と

「バイデン!バイデン!バイデン!! えっと ジ、ジ、ジョー・バイデン!」ふ~~良かったあ。デカも一緒にふ~~。

そしてインタビュー。
「今までテロ活動をしたことがありますか」とか
「今まで国外追放されたことがありますか?」などといった質問だ。

全て終わった後に「旦那さんミリタリー?宣誓式に来るなら制服着てきたほうが良いよ」とアドバイスもしてもらった。

終わった!ドアを開けたら待合室に戻り
「受かったよ~~」「よかった~~!!」待ってた夫も大喜び。

「あの人に当たったらどうしようって思ってたら、当たったよね。だいじょうぶだった?」
「うん、すごく良い人だった!!日本語でだいじょうぶよ~って言ってくれた!」
「わあ、良かったね!!」

大きな山を超えて自信がついた日だった。

宣誓式でアメリカ人になった日

5月の試験の後1ヵ月半後。

2010年 6月23日 水曜日 

宣誓式がLAコンベンションセンターで行われた。

私は午後の部。 
それでもこの同じ時にアメリカ人になった人はここだけで2650人!
午前の部もあるので、その倍の人がこの日アメリカ人になった。

 駐車場から、すでに長い人の波。 センターの外では証書を入れるバインダーを外で5ドルで売っていた。

 入り口も中も長い列。 付き添いも入れて約4000人の人人……
ドアの両側で「こちらが市民権!」「こっちが付き添いの人!」とどなっていて圧倒された。

 夫は強面デカの試験管の勧めで軍服を着て行くと、会場の係りの方が私たちを見かけるや否や、サッと飛んできてくれて中央の赤いカーペットの上をエスコートしてくれた。
まだ両方の入り口では長蛇の列なのに。そしてなんと舞台の一番前の席へ。 軍の専用席だった。
すっごく特別に扱ってくれて感動した。コワモテデカ!ありがとう。

 式典が始まり、いろいろな人のご挨拶中で感動したのは「皆さんは自分の国を捨てたわけではないのです。これからは2つの国を背負うのです」というもので、新しいアメリカ人たちもワーッと大拍手。

 ものすごい盛り上がりでロックコンサートのようだ。ハデだな、アメリカ。
国歌斉唱から誓いの言葉まで、あっという間だった気がする。
誓いの言葉の後に

「これで皆さんは今日からアメリカ国民です」
「わ~~~」とミニアメリカ国旗を振りまわし、大歓声の中セレモニーは終了した。

 誓いの言葉が終わって始めて(アメリカ人)になるのだ。
式典の後、証明書をもらえる。 
そのさいに永住権グリーンカードをゴミ箱のようなところにポイ!っと入れられたのが衝撃だった。 ああ~あれも苦労したのに~と。しかも最近書き換えたばかりで3万くらいがポイッと。いや~~。

 始まる前は複雑な気持ちだったのに、終わったら嬉しくて胸がいっぱいに…。

 意識が変わった瞬間だった。外国人からこの国の人間へ。

 でもけっして日本を捨てたわけじゃなく、日本の心をもったままのアメリカ人。
息子にもきちんと文化や言葉を受け継いで欲しいと思っている。

 私の2つの国。

 生まれて育ててくれた日本。受け入れてくれたアメリカ。

 ありがとう、日本。 ありがとう、アメリカ。

 とても強くなったような不思議な気持ちになった。

LAで猫をアダプションした日

 LA時代の大きな出来事の1つは猫を飼い始めたことだ。

 LAで母を呼び寄せることになった。日本を離れて寂しい母へせめてなにか毎日が楽しくなるようにと考えたのが発端だった。

 猫は私も大好きだが、移動が多いミリタリー生活なので引退してからと思っていた。
生き物を飼うってとても責任があると思う。亀のかめちゃんはアイダホに連れていけずに(当時爬虫類と両生類は連れて行けなかった)泣く泣くお友達に託していった夫も慎重だった。

「う~ん、猫ね、ちゃんと世話をするよね?ぼくは出張も多いよ?」
「母が世話をするって言ってるよ、私も手伝うし」
「旅行もあまりいけなくなるよ?よく考えた?」
「うん、考えたよ」

 根が真面目な私たちはそんな話を毎晩していた。
最初何も知らずにペットショップへ行ったのだが、犬も猫も売っていない!
この時はもう違法になっていることを知らなかった。 ペットといえばペットショップもしくは外で子猫を拾うまたは子犬をもらう。という考えしかなかった私達あせった。
のら猫も保護されるのでいない。
拾いたくても、のら猫はいない。買いたくてもペットショップにもいない。

 ある日ペットショップに張り紙がしてあるのを発見した。 そこには、今度の日曜日アダプション会(里親会)ある。と書いてあった。 

「あ!これ、これだよ。良かった行ってみよう!」
LAトーランス近くにあるローンデールの大きなペット屋さんに日曜日行った。 今まで売るための子犬や子猫が入っていたケージにアダプションの子猫が!!
「ギャ~この子を!」
「もう予約済みなのごめんなさいね。今から5匹子猫が来るって連絡受けているから、待ってて」と言われて、もんもんと待つ私、夫、息子、そして母
みゃあみゃあと小さい子猫が5匹。ダンボールに入れられてやってきた。

「きた~~~~!!」テンションマックスな私達

 ちなみにダンボールはカップヌードルUSA。 持ってきた女性はメキシコ系の女性で泣いていた。旦那のほうは「ほれ、早くしろよ」みたいな感じで2人でスペイン語で話していた。
くっきりした顔だちで灰色の毛並みの一番小さかった子猫に決めた。抱っこさせてもらった夫はあまりの可愛さ、あまりの小ささに悶絶。



 おとうたん、一番厳しいこと言ってたのにノックアウトの瞬間だった。
だけど、その日にもらって帰れないと言われた。なぜかというとLAの法律で生後2ヶ月以内の子猫は譲歩できないのだそうだ。
なので、最初の子猫も(予約済み)だったのだ。一週間後に来てくださいと言われて
「いや~~~~~」蛇の生殺しだ。でも仕方なく、次の週までワクワクと待った。




 
 さて、運命のその日。灰色毛並みちゃん、いた、いた!!。茶トラの子猫と一緒に寝ていた。 うんやっぱりかわいい~と書類にサインを始めた。 譲歩にあたって厳しい項目がたくさんあった。一つ一つよく読みながらサインをしていく。

 (完全に室内飼いにすること)(爪の除去手術は絶対に行わない)(ワクチン注射は必ずすること)(避妊手術も必ずおこなうこと)

 ここで里親会の人と夫と話が始まった。 実は一緒に寝ている茶トラの子猫はまだ里親が決まっていないだと。

 私は最初は一匹と決めていた。ペットの病院代が高いのを知っていた。それから譲歩にもお金がかかるのだ。確か一匹120ドルだった。これには避妊手術代金が含まれている。
座って手続きを待ってた私に夫がそろそろと近づいてくる。

「あの、あのね」くねくねしてる。
「もう一匹いーですか?ツーいいですか?」
「え~~??だめだよ、最初は一匹!」
「兄弟がいるの、オレンジタビー(茶トラ)だって一緒にスリーピング」

 目がうるうるしてる。涙目の夫くねくねしつつ

「可哀想だよ、ハグしてる。引き離せないよツープリーズ!」
「う~ん、だって病院代もかかるんだよ…」
「お給料上がったから!」

 そのうち母と息子も来て3人で目で訴えられた私。
「しょうがないなあ、じゃあそうする?」




 わ~~と盛り上がる家族。 いそいそともう一枚書類を書く夫。

 どれどれ売れ残りの茶トラはどんな顔?と見に行こうとすると、なんとなんと次に来た子猫は真っ白なチンチラ種の子猫でキャットフードのモデルのよう。こんな美しい猫見たことないというような子猫だった。
ふわっふわの真っ白。せこいけど買ったら10万円くらいしそうと瞬時に考えてしまった。それにしても可愛すぎる。

「ギャ~~~すっごい可愛いの来た!!この子がいいなあ、ねえもう遅い?」とひどい私。
「遅いし、2匹飼いたいのはそんな理由じゃないよ、仲良しの兄弟だからなんだよ」
あううう美猫には人が群がってる。ボランティアに来ていた高校生まで

「私、この子ドネーションする!」と言い里親会から断られていた。
「え?どうしてノーなのよ!」ガム噛みながら怒ってる。この里親会は人をよく見ていて断わっている家族も多かった。

 5匹の子猫が来た時に他の子猫を抱っこさせたもらっていた家族は断られていた。小さい子供が多くて、それは良いのだが、猫の扱いが乱暴だった。話し方などもよーく観察していたようだ。
そういうことはあとから聞いたので、信用されたのだなあと嬉しかった。

 そんなプロな里親会の女性は夫を見ぬいた。

 売れ残ってる茶トラ、この人なら幸せに出来ると。



「兄弟一緒のほうが良い、特にこんなに仲良しならば」と言われて抱っこしあって寝ている子猫を見せられて腰が抜けたおとうたん。
鬼嫁にそーっとお願いした。鬼嫁はしぶしぶOKしたものの、あとから来た白猫に心奪われている。
「いっそ3匹でも良いですよ」なんて言ってくれた。どこまで信用されているんだ、おとうたん。ああ~白のチンチラあ~。

「いえ、今回はこの兄弟をお願いします」と我に返ったおとうたん。書類を済ませ、お金を払い、必要な物を全部そのペットショップで購入した。 子猫のフード、トイレ、砂。それから小さいキャリーも2つ買った。 ペットショップはペットが売れなくなった今、こうやってビジネスを続けていて、合理的ですごくいいことだと思った。

「じゃあおうちに帰ろうね」とそれぞれをキャリーに入れます。茶トラの方の顔立ちは正直灰色の方よりも劣っていた。 ひとことで言うと、わるそーだった。


うう、まだ心残りの白い猫をせめて写真を撮ろうとして息子に怒られた。




「何してるのママ、うちの子はこの子だよ」と悪茶トラを抱っこしている。
「そっか…そうだよね、うちの子だもんね」車の中でキャリーを開けて茶トラに
「よろしくね」と挨拶をすると
「えっぷし」と加トちゃんのようなくしゃみをされ、顔に鼻水を飛ばされた。
「き、きたねー!」

 そんなはじめての挨拶を交わした私達。家につくと元気に2匹で飛び跳ねている。
グレータビーはコタロウ。呼び名はコタちゃん。 
オレンジタビーはチャチャマルと名づけた呼び名はチャチャ。

「あ、可愛い、一緒に遊んでる。やっぱり2匹でよかった仲良しだね」
「ね、言ったとおりでしょう?」鼻の穴膨らますおとうたん。
子猫のあまりの可愛い動作に私の心も捕まりかけた。が、なんかくせえ。お腹を壊していたチャチャの足が汚れていた。

「あ~もう、しょうがないなあ」にこにことバスルームのシンクに連れて行って足を洗おうとゆるいお湯をかけた瞬間
ふぎゃ~~~~~~と私の肩まで駆け上り、そのままどすんと下に落ちぶっ飛んで逃げて行った。

「こ、このやろう!!」
私の胸には13本の傷。たぶん前足10本分、後ろ足3本。

「ばきゃろー恩知らず!!」
そして鬼嫁は夫を指差して
「一匹でいいって言ったよね!!返してきて!!」ひどい。





 それから6年。


 チャチャはものすごい甘えん坊で私のことが大好きでどこでもくっついてくる。私も見ているだけで泣いてしまうほど、溺愛している。あまりのかわいさに失神しそうなくらいだ。ねこのいない生活は考えられない。

 そして夫には冷たいチャチャ。 夫の一言でうちの子になったのに。

 「ママは本当はひどいんだよ、君のことを返してきてって言ったんだよ」と時々言いつけている夫だった。




うにが島へうに退治

 



 LAでは空港のそばに住んでいた。エルセグンドという治安があまり良くない場所だった。アパートメントはゲートがついていて、住民以外は入れないようになっていた。夜はあまり出かけず、アパート内のプールに行ったり、家で映画を見たりしていた。




 ある夜、皆が居間に集まっていた時。
夫は(さきいか)を食べていた。息子も夫も大好きなサキイカ。これ2人共、さけイカだと思っていた。

「さきいか、だよ。さけじゃなくて」。

 夫と息子「ええ~??お酒を飲みながら食べるから(さけいか)だと思ってた」。
こういうのはすごく納得できる。 確かに~! そのほうが良かったのに~と。

 日本語の変化がむずかし~っと言っている。
たとえば本は1冊、お皿は1枚、鉛筆は1本とか、なんで変わるのかと。
変わるのはわかるとして、いっぽん、にほん。とはなぜ発音が変わるのかと。

「猫の数え方は?匹?そうなんだ。 じゃあいちひき、にひき、さんひき?」

「違う違う、いっぴきって発音するんだよ」

「へ~じゃあ、にっぴき?」「ちが~う。にひき」

「じゃあ、さんひき?」ちが~う。そしてなんでと怒ってる。

 この前まで時間の1分、2分も 2ぷん?って聞いてた。
変えなくても良いのに。 もう2ぷんにしちゃえばいいのに。
全部ぷん、で。5ぷん。とか。

 それから別の日に息子が石像の話をはじめた。

「Gargoyle(ガーゴイル:教会の屋根などにある怪獣の形の彫像)って、日本語でなんていうの?」
「なんだろうね、石像でいいんじゃない? 名前ないよね?」(後で調べたらヒハシというそうだ。)
「あれは、悪い物を追いはらうのに怖い形なんだよね?そういう悪いものは……」
その時、夫は自信満々に 

「それは、うに!」

「それ…おに……ブ……うにいい~~~ぶわっはっはっは~~!!鬼をうに~」
いつまでも笑う私を悔しそうに見つめる夫。

「地獄にいるうに~あはは!」

「桃太郎はどこに行ったの?ええ?うにを退治にうにヶ島?ぎゃはは」

しばらく笑いといじめは止まらず。悔しそうな夫。でもこれはおもしろすぎる。

それから家族でLAのダウンタウンに行った時のこと。 
ダウンタウンのコリアタウンにかかる時にハングルの看板を見て夫は

「あ!ここカンゴク!!」

……韓国だよ。

監獄じゃないよ、点々つけちゃったよ。

大爆笑な車中
「監獄って~~惜しい~~けど惜しくない~~!!それプリズンぎゃはは!!」
夫は「もう日本語話さない!!」なんて言ってましたけど、5分後に

「さっきの言葉なんだっけ? カンゴフだよね?」

今度は真ん中に点々つけちゃったよ。看護婦じゃないよ。
「それナース!きゃはは」

韓国から監獄、看護婦。 うう~~ん、惜しすぎる。そして面白すぎる。


◆ ◆ ◆

 次の移動地はオハイオになった。今現在もオハイオで暮らしている。

 LAからオハイオは飛行機で数時間。犬猫はケージに入れて貨物室が普通なのだが、ペットが乗客と一緒に乗ることができる飛行機を選んだ。席代は払うのに足元に置く。でもこれならキャリーに入れて足元において一緒にフライトできる。

 オハイオはLAとはまた全く違うアメリカだった。アイダホのように荒野のカウボーイではないが、やはり田舎だった。緑が豊かで素朴な人たちが多く、のどかという言葉がぴったりな場所だ。

 ところが、この場所にきて母の様子がどんどん変わっていった。都会が好きな母、そしてLAでは何かやりがいのあることがしたいと商売を始めていた。
基地の中でワゴン台での販売。 商品は自分のペン画のカードや日本から輸入した小物など。始めるのにあたって夫は銀行で手続きをしたり、カードを作ったり、仕入れをしたり、ありとあらゆるサポートをしてくれていた。

 LAではアパート暮らしだったが、オハイオは不動産が安いので4部屋(私達の部屋、息子の部屋、母の部屋プラスゲストルーム)の家を建てる事になった。その部屋で絵を描いたり、本を読んだり、日本のビデオを見る毎日。こういう静かでのどかな生活は性に合っていなかったのか母はどんどんうつ状態になっていった。

 ある夏、母だけでもと一時帰国をさせることになった。夫はお金を工面してなんとか母が幸せになってほしいと思ったのだ。一ヶ月日本へ帰り、オハイオに帰ってきた後

「やっぱり日本が良い」と帰国してしまった。えええ~~~?
そう、これが親呼び寄せのその後のエピローグだ。
元はといえば、呼び寄せのために市民権を取ったのに!金銭的なことだけでも、家族をスポンサーにして永住権申請をする場合、申請費用として合計1365ドルを移民局に支払う。それからステータスを変えるとやらの訳の分からない代金1000ドル。きー。

 ビジネス用のタックスなどの申請をして、母の絵を売るためのスタンドやフレームなどたくさん仕入れたままだ。
オハイオから日本への一時帰国も無理して代金を捻出したのだが

「やっぱり無理だから日本に帰る」

 ちょっ??ひどい!私はかなりぷりぷり怒っていたら夫は
「ママは日本に帰りたかったんだから、これで良かったんだよ。タイミングは悪かったけど、できるだけのことはしてあげられた。だから良かったと思うよ」

 夫は心底優しい人だ。申し訳ない気持ちでいっぱいだった。これからも夫の日本語は笑うと思うけど(をい)一生力いっぱいサポートしていきたいと思う。
そして母も日本に帰ることができて今は良かったと心から思う。

陰部オープンってなんぞ?

夫の日本語の間違いばかりを取り上げて大笑いするのはフェアではないので私の英語の間違いも書いおこう。ただ夫の間違える日本語のほうがうんと面白い。絶対に~。

 ちょっと言い間違えて全く違う意味になるところ(監獄を看護婦とか)は英語も同じ。

 例えばゴールデングローブ賞 がテレビであったんですけど、これを
「ゴールデングレープス!!見ようね!」
「グレープス!食べるの?」違うよ。 

 そのゴールデングローブ賞にモーガンフリーマンが出たとき
「すごい!見てみて!!スタンディングオペレーション!!」

 正しくはスタンディングオベーション 敬意を払い立ち上がって拍手すること。スタンディングオペレーションって!!立ったままの手術…。

 でも途中で突っ込んでくれないと、間違ったことさえ気がつかないでドンドコドンドコしゃべっていく。

 出産時に子宮が収縮することをcontractionコントラクションというのだが、私はConstructionコンストラクションが~と叫びました。それ工事。惜しいけど全然違う例。

 ニクソンの話の時に
「うん、うん、あれね!ホワイトゲートね!」もちろんウオーターゲートです、私馬鹿な人みたい。

 こんな風にワタシ的にはちっともおもしろくないのだが、夫と息子はお腹抱えて大笑いしている。ほぼ毎日。はい、ほぼ毎日。

 きわめつけが、コンタクトレンズの検査の話。

 その日ドクターはあれこれ目の検査をして(フッと風があたるのとか)
をした後に
「瞳孔を拡大する目薬入れますね」と言った。
 ちなみにこの英語
瞳孔拡張  dilation of the pupil と言う。
瞳孔はPupil。 発音はピューポー。

 昔聞いた時は、「なにピューポーって変な言葉!あっはっは!
ピューポー!!スターウオーズかよ R2D2かよ」と、大笑いした。
なので罰が当たったかも知れない。この言葉よく忘れる。まあ、あまり使わない言葉かもしれないが。

 この日も「わあ、眩しい~」と言いながら検査室から出たら(この検査の後は光がすごく眩しい)
夫が「だいじょうぶ?」
「あ、だいじょうぶ、ほら、あの検査したの。Pubicをワイドにオープンするやつを!!」

ピューポーとピュービックを間違えた!!

Pubicピュービックとは……陰部のことでございます。


陰部検査って……言っちゃったよ。
ワイドにオープンって……言っちゃったよ。

どんな目医者なんだよ。

夫と息子は大爆笑だ。「結構大きい声で言ったよね~!!」と

誰も聞いてないよ。何人か振り返ったけどね。

SGIってなんの略??

夫はここオハイオで、また病院関係の仕事だ。

 「今日は仕事どうだった?」と聞くと夫、よーく考えて。

 「いい、だった!」 ……おしい。

 過去形には(だった)を使うルール。(例、素敵だった、きれいだった)

「言い方が違うよ~」
「あ、そか…じゃあ…よい、かった!!」
「どっちも、違う~! よかった」って言うんだよ。

 がっくりきている、おとうたん。

よく語尾につける(だ)が抜けたり、反対に多かったりしてる。

例 「だって~好きから~!! 」(抜ける例)
  「かわいいだから~~!!」(多い例)

 家族で今日は何をするって言う話をしてて、息子とゲームするの?なんて聞いてた時に、夫が

「今日は…やりたい!!」
I wanna do it!って言いたかった夫、Doをやる、と訳しちゃったよ。

 夫は礼儀正しき人なので自分が先に食べる場合に
「食べていいですか?」と聞いてくれる。「どうぞ」というと

「ありがとう、ではお大事に!」
そこはお先に、だ。 惜しくない。

先日もなかなか面白いことを言っていた。

仕事場からの電話は他の人にわからないように日本語が多いのだが、慌てて話すのでかなりおもしろいことになっている。

「仕事終わる、早いよ。でも6時からパーティーある。オフィスの人バイバイしちゃう」

翻訳「今日は仕事は早く終わるけど、職場の人のお別れ会が6時からある」

 これはかなりわかりやすい例だ。(これで?)バイバイしちゃうパーティーはお別れ会だ。
全くわからない日もあって、もう途中で笑っちゃってお腹が痛い。夫も釣られて笑ってるし。

「今日、はやいは、おわらない! 問題ある。仕事はおわった。でももっとある。おわったら~あとにある」

翻訳たぶん 「今日は問題が発生して早く帰れないんだ、仕事そのものは終わったけれど、その後にする仕事がある」

そしてかなりあってる時もある。

「でも帰る。そしたら家で仕事ある。コンピューター持って帰る(お、調子いい)そしたら、話すのできる、話したい?(ん?話がある?)少し用事ありますけど、帰る」

「わあ、すごいね、上手になったね!ほとんどあってたよ」


 いつも間違えるのが(帰った後で)を(帰るの後で)と言うのだ。

「カエルの後でご飯食べるね」なんかカエルが先にご飯食べるみたいだ。

ですが、時々本当はペラペラなんじゃと思うような時もある。

 夫が最近つくった高度なジョーク。

夫の所属するアメリカ軍、3文字略語がすごく多い。

例えばPCS 
パーマネントチェンジステーション ステーション{駐在基地}を変わることだ。こういうのがたくさんある。

頭文字を取って3文字にするもの。

FBI (Federal Bureau of Investigation : 連邦捜査局)
CIA (Central Intelligence Agency : 米中央情報局)

ネットスラングも
LOL(laughing out loudこれは(笑)に近いです)から
OMG(Oh my Godご存知の、オーマイガ!!めっちゃ驚いた時につかいます)など、他にもたくさんある。

 先日ずっと勉強していた夫が 「オ~~~ SGI!」 と言ったので

「SGI??ええ~なにそれ?聞いたことないよ~?なに?」 と聞いたら

「尻が痛い!(S)hiri (G)a (I)tai 」だって。

うまい!!山田君、尻が痛いんだって座布団あげて!!



 変な発音とオハイオに来てから。


 アメリカに来てぶったまげたことの1つはカタカナの発音が違いすぎることだ。 
最初から日本語のひらがなは英語で覚えるけれど、カタカナは油断する。

「きっと、似てるに違いないよ」って。

 有名なのがマクドナルド。 

 一番近いカタカナ表記は ミックナ~~~ロ~
マでなくてミ。そしてクは限りなく小さく、クとナの間に聞こえないくらいのドをいれ、最後のロ~は限りなくルドに近いロです。
似ても似つかず。

 アメリカ人の友達にマックって日本語でどう発音するか知ってる?マ。ク。ド。ナ。ル。ド。って切るんだよって教えると、「うそでしょう~?きゃはは」と大笑い。

 君たちだってカラオケの発音出来てないよ? キャアラオッキ~と言う。気持ち悪い。

 Keの発音がキなので酒(Sake)もサッキ~と言う人が多いです。

キャラオッキーに行ってサッキーを飲まない?なんてね。 いやです。

 タイフーン(台風)のように日本語になってるのもあるけど、ひどいのが盆栽。 
いつのまにかBanzaiになっている。バンザイTree。何かと思った。

 地名も日本語になっているものは注意。例えばシベリア。
シベ~リアアなんて言っても通じない。 これはサイビュリアだ。
サイビューリアン・ハアスキーと聞いた時はなにかと思った。シベリアンハスキーだった。

 短い発音も注意が必要だ。例えばチリ。 発音はチレなのだ。
私はこれ最近まで知らなかった。

「チレ?どこ?知らないよ?」
「この間炭鉱の事故があったじゃない?」
「チリでしょう?」
「それが~チレ!チリは食べるやつ!」
同じだもんね、知らないよ、チレなんて。

 私はコンセントも間違えた。英語じゃない!コンセント。絶対に英語だと思っていて「コウ~ンスエント~」なんて言ってみたら、夫は変な顔していた。
正しくはアウトレットOutletというのだ。な、なんでえ??日本ではアウトレットモールの意味だけ~。

 同じ発音で違うものもある。例えばストーブ。 これは日本のストーブを指すのではなくて、キッチンのコンロのことなのだ。
最初はいろいろと混乱したのを思い出した。カタカナは危険だ。


オハイオについて

 のどかなオハイオ。アイダホ田舎とはまた違った田舎で、アメリカ人の感覚だと郊外。馬も牛もいるけれど、郊外型の綺麗なモールもあるよ。そんな発達途上田舎。

 野生の鹿も近所まで来る。 春から夏にかけて小さいうさぎがいっぱい来る。家も土地のお値段が安いので広く、何よりも暖房がきっちりしている。ここは冬は猛烈な大雪でマイナス20度になるところ。夏は快適に過ごせる。

 娯楽のないアイダホで人は浮気ばかりしていると書いたけど、ここも娯楽はあまり無い。ただし、ものすごくクリスチャンが多いので(汝、姦淫するなかれ)ということで近所でのスキャンダルな話しは聞いたことがない。

 ただ、数年前に誘拐監禁の大きな事件も発覚したから、場所でかなり違うのだと思う。北のクリーブランドのほうが治安が悪いと聞いている。

 4年前、ここに来て驚いたことはフレンドリーで親切な人が多いことだった。LAはかなりワイルドなところで、映画に出てくる悪い言葉はひと通り聞くことができるし、運転も荒く中指おっ立ても何回も見た。 ここでは一回も見たことない。それどころか、誰かの家の前を通るときに、全く知らない人が手を降ってくれる。

 そんなオハイオ、とっても気に入っている。夫の職場は相変わらず忙しいが、ERとか飛行機で患者さんを運ぶ救命士ではなくデスクワークが主になった。

 最近はオフィースからの電話で日本語をトライしている。
他の人に話の内容がわからないように。でも私もわからない。

「帰りに〇〇買ってきて」と電話した日

「遅い、いいですか? 今、会議するかな? そうしたら~おわるなんじ?わからないよ? そうしたら~おそく、なる。 だけどいいかったらいいよ」

翻訳
「遅くなってもいい? 今から会議だと思うから何時に終わるかわからない。遅くなってもいいのならいいよ」

焦ると特にめちゃくちゃになる。今会議するかな?というときなどに。
それから
探しものをしている夫に
「あったの??」と聞くと
「あった、ない!!」
「あった、ない~??ワハハ違うでしょう!!」(ひどい嫁)
「え???(ちょっと、考えて)  あ!あって、ない!!」
それこそ、あってない、だよ。 

「ない、でいいんだよ」どうも、納得行かない様子。

最近一番爆笑したのは

「マウイ島の~山~~背が高いよ。 富士山は~もっと背が高い、でもこの山も少し背が高いよ」

翻訳
「マウイ島にある山は、富士山よりは低けれど結構高い山である」

これは「笑うな」という方が無理だ。お腹抱えてヒーヒー笑った。でもね、夫も私の英語よく笑ってる。だからおあいこでいいよね?

いろいろなことがあったけど、全てのことに感謝。

 

 オハイオに来て「思えば遠くに来たもんだ」という言葉が浮かんだことがある。

 英語も母国語のようにとはいかないけれど、不自由しなくなった。(相変わらず間違えるけど)風習にひい~~っと驚くこともなくなった。反対に日本の風習を忘れていて「そうだっけ?」と驚いたりする。

 夫は日本が大好きで自分でリクエストを出して日本に来た。それでも日本の習慣で困惑することも多かったと思う。今でも日本は大好きだけど日本では嫌なこともあった。

 結婚してはじめは日本に住んだのだが、外国人ということで家を借りるのも大変だった。それから旅館などの旅行の予約も外国人同士ではだめと何箇所も断られた。 

 私も日本に住む日本人でいながら、外国側の目で見なければ、知らないこともとても多かった。

 結婚前、渡米前の書類の多さも大変だった。

 大使館も何回も行った。警視庁(犯罪の記録がないか)も行った。病院の検査も何回も行った。指定病院で料金も高かったように記憶している。

 米国に渡ってからは今度は私のほうが文化の違い、風習の違いに戸惑った。

 初めてのアメリカはアイダホの荒野だったので、この頃は言葉もわからないことが多かったし、なにもかも初めてで、帰ることばかり考えていた。 何かといえば「日本に帰る~~」

 寂しくて、辛くて、この時もよく泣いていた。
今では毎日大笑いしている我が家だが、いろいろなことがあった。

 結婚して知らないことがあまりにもあり困惑した日々。

 アメリカで慣れない風習に涙した日々。

 突然病に倒れ闘病した日々。

 いつでも家族がサポートしてくれて、そのおかげで乗り切ることができたと思う。

 23年たち、アメリカ生活もすっかり慣れて、国籍を取り、お互いにいろいろ理解できたかなあ?と思っている。

 何よりも大事なのは歩み寄ることだと思う。これは日本人同士でもアメリカ人同士でも全く同じだと思うのだ。

 お互いをたとえ理解できない部分があっても(理解しようと歩み寄る気持)が大事だと思う。理解できないこともたくさんあるし、自分はできない!と思っても

「そうなんだ~」と認める心が国際結婚を維持していくコツかなかなと思う。そして、それはどんな形の結婚でも同じなのだと思う。

 これからも、どこの国に住むとしても、夫と息子がいるところが私の世界と思っている。 

 息子にもいつか家族が増えた時、どこの国のお嫁さんが来ても夫のママが私にしてくれたように、初めて会った時には抱きしめて I love youと言ってあげたい。

そして夫と一緒に歳を重ねていきたい。


「いろいろあったね」と話しながら
「日本語また間違えてるよ」「英語もね」と笑いながら。



 私はこの人と結婚できて本当に良かった。

 とっても、とっても幸せだ。

 ありがとう。 アメリカンおとうたん。





。。。。。。。。。。。。。。。。。




あとがき

最後までお読みいただきありがとうございました。

結婚生活は色々あると思いますが、特に国際結婚は山あり谷ありでした。

おもしろいことだけ書こうと思いましたが、泣いたこともありました。
大きな問題はやはり子供のしつけや教育問題でした。

しかし子供が小学校2年生のときに私に乳がんが見つかり闘病のために突然ハワイに引っ越すことになったのです。
それから数年は私にとっても家族にとってもすごく辛いものでした。
学校も行けない時期もあり、教育どころではなかったように思います。

皮肉なことにこの時期家族の絆がすごく強くなったのです。

あの頃に比べたら多少のことは、と思えるようになりました。
本当に大事なものが見えたような気がします。

現在、息子は大学生になりました。
外国語の(日本語)の授業を取って家庭教師のようなこともやっています。
私の日本語の間違いを指摘されます。とほほ。


家族はとても仲が良いと思います。
私のモットーは家の中は明るく楽しく。です。
お母さんが(妻が)健康で明るいことは大事なことだと思うのです。

息子もいつか結婚するでしょう。違う国の人かもしれません。

その時にはお嫁ちゃんをだきしめて「大丈夫だよ」と笑ってあげたいと思います。




2017年9月30日土曜日

5新婚時代



23年前の日本ではまだ私たちは奇異な目で見られることも多かったように思います。

ただ、夫は日本でそれ以上に優しく親切にしてもらっていました。

お店に入り

「こんにちは」というだけで

「あら~この外人さん日本語上手だわ~」とおまけしてもらっていました。

ずるいです。

私がアメリカでハローと言ってもハローと帰ってくるだけです。

 助六のシャツを着てにこにこと「こんにちは」を連発する夫は多くの日本人から愛されていました。

ただ、結婚してから悲しいことがあったのです。

結婚してすぐに家をなかなか借りれなかったのです。

(外国人お断り)と堂々と書いてある家は(ペットお断り)よりも多いくらいでした。

それまで優しくしてもらっていた外人さんはすっかり落ち込んでしまいました。

当時の日本では個人では見てもらえず、全員ひとくくりに(外国人)そしてお断りと続きます。 不動産屋さんも電話で小さな声で「でもね、良さそうな人ですよ」と言ってくれるのですが、当時はかなり難しい状況でした。

やっと見つけた家は大家さんが短期出張中の6ヶ月だけ契約の家でした。和室もある素敵な広い一軒家で私たちは手を取り合って喜びました。

 一階はキッチンダイニング・リビング。2階は6畳2つ。真ん中に3畳の部屋があったのですが、

夫は3畳の部屋をしげしげ眺め

「ここは?クローゼット?」

ローマの休日のお姫様か?



確かにその真中の部屋はあまり使いみちがなく、タンス置きの部屋になったので結果的には当たっていました。

日本の家は確かに狭いし、夫は何回か頭もぶつけたりしたけれど、この家は2人暮らしに十分すぎるほどすてきな広い綺麗な家でした。

そうやって始まった結婚生活は最初は慣れずに戸惑うことも多かったのです。言葉の壁も大きかったし、文化の違いもお互い「なんでよう」と思うこともとても多かったように思います。

意思の疎通が出来なかった時は喧嘩になったりもしました。

国際結婚は最初は何もかも珍しく甘い日々、長く生活していくうちに日々の細かいことで意見がくいちがったり、勘違いから喧嘩になったり、慣れない土地や文化に疲れたりするのです。

それでもお互いが歩み寄って理解できなくても、しようとする姿勢が大事ではないかと思います。

4タクワンの話


日本食が大好きな夫、チャレンジするのも大好きなのです。

カリフォルニア出身なので日本食も結構食べ慣れています。

はじめて日本に来た時に1人で街を探検し、見るもの全て珍しく、写真を撮りながら街を練り歩いたそうです。

スーパーに入った夫はタクワンを見て大興奮したそう。 

「あれだ!カリフォルニアの日本食レストランの定食とかについている黄色い美味しいやつだ!!」大好きなアレ。

長いタクワンを丸ごと買って、それを剥きながらボリボリと歩き食いをしました。

「そうしたらね!半分も食べてないのに気持ち悪くなったんだよ!!」

当たり前です。 

というか半分近く食べたんだ? 

塩分摂りすぎですね。

確かに外国の食べ物は食べ方がわからないですね。

夫の母が日本に来た時にしゃぶしゃぶ店に連れて行ったのですが、鍋を見て

「お湯!?」

「マム、ここにね、薄いお肉をスイースイーって洗うように入れるの」なんて身振りで説明しているところにお野菜がやってきました。

白菜、もやし、ネギが乗っている大きな皿を受け取ったお母さんはなんと

もっしゃ、もっしゃと食べ始めました。

「うわ~~~~~それ鍋に入れるの~~」

サラダだと思ったそうです。

「味ががないなと思ったわ」と言いながら、口からもやしが出ていたのを今でも思い出します。