2017年10月2日月曜日

浮気と夫婦交換 同時テロ

うつ状態を救ってくれたのはやはり友達の存在だ。 基地の中に居た数人の日本人妻友達。それから近所の奥さんたち。

夫の仕事は皆、空軍軍人なので、出張も多く、何もない田舎に残される妻たちはアメリカ人であろうとノイローゼになる人もかなりいた。特に外国から来た人は鬱もひどかったと思う。命を断ってしまった悲しいニュースもあった。

 ジョリーンもLAからアイダホ生活でうつ状態になり薬を処方してもらっていた。家が近かったのと、それからジョリーン、アメリアとは家も近く子供同士が同じ年だったので毎日誰かしらの家に遊びに行く仲だった。

 子供の誕生日パーティーには日本人アメリカ人どちらのグループも呼んだりして、そういう時はとても楽しかったのを思い出す。広い海苔が手に入ったので巻きずしの作り方を教えた。甘い卵ときゅうり、ツナを巻いた巻きずしはしばらくブームになった。

 ジョリーンはなにもしないで過ごすよりも、と空軍の仕事をすることを決意してトレーニングを6ヶ月受けることにしたの。5歳の娘はその間旦那さんが見ることになった。 我が家含めご近所中が娘さんを預かったりして助け合いをした。

 その6ヶ月の間にジョリーンの旦那とアメリアはできてしまった。当時は誰もわからなった。ジョリーンが出張から帰っきて、泣きながら

「帰ってきたら別れたいって」と電話が来た。私も思わず泣きながらジョリーンの家に走って行って話を聞いた。

ジョリーンはFワードばかり使うような女性だけど、本当に夫を愛していて純粋な女性だったのだ。 他の人たちは全く悪ぶれなく浮気をしていた。

 スインガーと呼ばれる夫婦交換のカップルも居た。
もちろん私たち夫婦はそういう世界とは無関係なので聞くたびにひえ~~~とびっくり仰天していた。
そんな話を聞いて以来その夫婦達の顔を見られないというか、もっと見てしまうというか。へええええ

 夫ママが遊びに来た時にその話をしたら

「浮気と夫婦交換かあ、そういう人結構いるよね、で、あなた達は誰からも誘われなかったの?」
マム、何言ってるの~?

「うん、誰も!でもね、もてないんじゃないよね、真面目だってことがわかってるんだよね、断るってわかってるんだよね」夫も「そうそう、そうだよきっと」

意外とのんびり見える田舎の方がこういうこと多いんだなあと思った。
そんなのんびりしたアイダホでしたが、緊迫した一日があった。


 911同時多発テロ

 2001年9月11日

 あの日は息子を学校へ送って行き、また砂漠の一本道を急いで帰った。当時の楽しみのテレビのために。カップルが登場して番組内で大げんかする(ジュリースプリンガーショー)という非常に低俗な番組にはまって、それを見るために急いで帰ったのだ。

 テレビをつけると映っているのは飛行機が飛んでいる所、あれ?と思ってチャンネルを変えるとどの局も同じ映像で、ビルにぶつかる映像。
新しい映画のプロモーションかなと思ったのだが、すぐに本物のニュースとわかり驚いたのを覚えている。

 あっという間に2つ目のビルの映像が。 慌てて夫に電話すると、
「今聞いた所、非常事態だよ」
どうしたら良いのかわからず、とりあえずニュースをずっと見ていた。
学校から早退の連絡はないし、午後になるまで待って迎えに行くと、お母さん方はその話題で持ちきりだった。

 この日先生がたは低学年の息子たちにとてもわかりやすく説明してくれた。当時まだ小学1年生だった。
「先生がね、悪い人がアメリカをアタックしたって。だからお休みになるかもしれないからって」そんなふうに言っていた。

 親への連絡として「あまりテレビ映像を見せないように」との連絡もあり、すぐに全アメリカの学校に連絡が行ったようだった。これは本当にアメリカの良い所だと思う。

 その日ペンタゴンも襲われたことから、どこの基地も標的になりうるという非常事態が出されて、とても怖いと思った。思わず空を見上げたら、雲1つない青空で、こんな平和な景色が一瞬で変わることも起こりうるのだと。

 今だから言えるけれど、翌日この基地からも半分人が消え、NY入りした。その日を境に私の気持はアメリカに寄り添うようになった気がする。

 もう限界だったアイダホ生活。日本に帰りたい。そればかり思っていたが、ここは夫の国。そして嫁いだ国なのだ。
アメリカを傷つけられて、はじめてとても愛していることに気がついたような気がした。
皮肉なことに数ヶ月でアイダホからまたY基地への異動が決まった。
911の前、特に冬の間は限界に近かったように思う。氷に閉ざされた土地での生活は辛く、夜ふらふらと家を出て行ったこともある。
「日本に帰る」と言いながら、歩いて。
その時は息子の声ではっと我に返り、慌てて家に戻ったけれど、ソファーに座ったまま何もできないような日もあり、鬱になりかけていたのだと思う。

いつもなにかしら変なことを言って大笑いしてウルサイ妻がおとなしい。おとなしいどころか塞いでいる。
夫もこれは大変だとかなり真剣に異動手段を考えてくれたのだった。

ちょうど元のフライトの職場にポジションがあったので移ることができた。
また日本に行けるなんて!!と大喜びした。
大喜びした日本で乳がんが見つかりすぐにまた米国に来ることになるのだが、今思うとここの生活のストレスだったのではないかなと思う。
それほど、この時の生活は私には過酷だったのだ。

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