2017年10月2日月曜日

やっと帰れた日本で失望 アメリカの給食

やっと帰ってきた愛する日本
「早めに車を買おう」と友人のYナンバーの車を借りて中古車に乗り入れると
「Yナンバーには売らないよ!」と言われた。すごくショックを受けた。以前に何かトラブルがあったのだと思うが、夢にまで見た愛する日本で最初の買い物はこんな残念な結果になってしまった。
この異動の条件の一つに長い出張があった。異動届のような書類を見ながら話し合った。

「何回か出張になるかもしれないけど、それでも日本に帰りたい?」
「帰りたい!」

 その頃はアイダホで別居して日本に帰っている日本人妻もいたくらいで、日本に帰れるなら出張なんて良い!と思っていた。
だが、実際に夫と離れて小学1年の息子との生活も、大変だった。

 基地内のアパートメントに引っ越した後、荷解きもできずに出張に行ってしまった。私はぐちゃぐちゃの家で毎日箱を開ける日々。こちらの引っ越しの箱はとんでもない大きさで、人間が立って入れるくらいだ。

 それを開けて中身を出して、箱をつぶして地下にあるゴミ捨て場まで持っていくのだが、人間大の畳んだ段ボール箱はすごく重くて、片手は子供の手を引いてヒーヒー言いながら下ろした。
なぜ子供を連れて行くのかというと、基地のルールは厳しく6歳の子供を置いて外に出てはいけないのだ。
日本では当たり前の(お留守番)も(鍵っ子)も児童虐待で逮捕される。

 それから学校も最初は馴染めなかったので、私がボランティアとして教室に入るようになった。子供はスクールバスで学校へ。その後基地内を巡回するバスで学校へ行き、教室内のサポートをした。先生からのレターをコピーしたり、採点をしたり、手のかかる子供の世話をして先生が授業を続けられるように、などがボランティア内容た。一番大きな仕事は通訳だった。社会科見学は基地の外で、そこで通訳をした。忙しいけれど充実した日々だった。

 しかし、毎日の荷物の整理と学校の仕事でくたくたになり、ある日体調を崩し倒れてしまった。
母が近くに住んでいたけれど、テロの数カ月後の基地内に簡単に入ることができなかった。やはりここも異国なのだった。

 倒れてベッドから起きられなかった時、息子はびしょびしょに濡らしたタオルを額に乗せてくれてくれた。
ほとんど絞っていないタオルで水が垂れてくる。それからコップにジュースをついでくれた。表面張力突破寸前までついでいるので、バッシャバシャと豪快にこぼしながら持ってきてくれた。

「首に~枕に~垂れる水が気持ち悪い~」と思いながらも、その気持が嬉しくて

「ありがとう、すぐ治っちゃうよ!」と言うと、さらにぬいぐるみを2つ持ってきて私の両脇においてポンポンと軽く叩いてくた。そして、当時アイダホ生活で日本語が怪しくなっていた息子は

「だいぼうじゅよ、だいぼーじゅ」(翻訳 大丈夫よ、大丈夫)と言ってくれた。

もっと小さい頃に息子が熱を出した時に私がしていたことだった。意外と覚えているものだ。それからポエムまで書いてくれて、それは今でも大事に額に入れて飾ってある。

 2回めの基地の中の暮らしはシングルマザー状態も多く、こうやって倒れたりもしたが、楽しい日々でもあった。
小学校1年生の息子にお父さんのいない寂しさを味あわせたくないと思い、映画に連れて行ったり、日曜日はブランチに連れて行ったりした。
なので、息子のこの頃の記憶は楽しいものが多かった。

 学校も日本人ハーフの子どもたちが多くて、とても喜んでいた。 日本文化のクラスもあったり、先生が少し日本語を教えてくれたり、なによりお弁当でおにぎりを持ってきている子どもたちがいてすごく嬉しそうだった。
アイダホでおにぎりを持っていた時に「なんじゃそれ??」「おえ~!」とと何人にも言われたていた。アメリカ人の子どもたちの定番はピーナッツバターとジャムを塗ったサンドイッチにリンゴやミニニンジンが申し訳程度についている。
行った学校全部、お弁当でもカフェテリアで注文しても、どちらでも良かった。
アメリカの給食はカフェテリア形式で、日替わりでメインのハンバーガーやホットドック。チーズマカロニやビーンズのサイドをトレーに乗せる。
日本では「嫌い、食べられない」という食材を無理に食べさせたら、アレルギーがあって…と言う事件もあった。私も苦手なものを食べられなくて遅くまで残された記憶がある。

 アメリカで驚いたのは嫌いなものは食べなくても良いということだ。ある子供は中のホットドッグのソーセージだけ食べて、パンもサイドもザーッとゴミ箱に捨てていた。
大量に捨てられる食べ物を見て、自由な国とはいえ、これはこれで間違っているのではと思う。

 そして、なぜこんなことを知っているかというと、ボランティアをしていたこともあるが、親もカフェで子どもたちと同じものを食べる事ができたからだ。確か当時、子供の給食は一日1ドルくらいで親が来て食べる場合は3ドルだった。
これはマウンテンホームの幼稚園でもそうで、夫も行ったことがある。どんなものを食べているのか親としては知りたい。 いつも数人親がきて一緒に食べていた。 

ちなみに味はとってもまずかった。

なんでも「おいしい」と食べる夫でも「これはまずい~」というお味。 
だめでしょ!幼稚園でそれは。
なので、お弁当を作る日もありましたが、ランチャブルといってクラッカーとハムとチーズがセットになっているものもよく持って行った。こういうのを(手抜き)といわれないのはアメリカの良いところだ。

 それから朝食があったのも良かった。働くお母さんは早めに子供を学校に連れていって、子供は朝食をそこで食べる。これはもしかしたら軍人ママも多かった、基地内の学校だったからかもしれない。
毎日のようにボランティアをして子供の様子を見られたのはとても良かったと思う。

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