2017年10月2日月曜日

はじめに


エッセイで書いたものをブログ形式にまとめました。

なのでページの最初からが順番となります。






結婚して24年にもなります。いつのまに??という感じです。

いまでは珍しくもない国際結婚。
言葉も文化も違う国に嫁に行った私のてんてこ舞いの日々と、優しくない嫁に笑われてばかりの変な日本語を話すおとうたん(ニックネーム)との日々を綴りました。

辛かった日々もありましたが(アイダホど田舎とか)思い返せば「楽しかったね」という思い出のほうがうんと多いと思います。

国際結婚?だいじょうぶだよ。結婚?なかなかいいもんだよ。と言うメッセージが含まれております。

それから英語などもシモネタ多めになっておりますので、お気をつけくださいませ。こちらは単にワタクシの趣味です。(笑) 

今日もオハイオの我が家は私と夫、息子3人プラス猫2匹の笑い声がひびいています。
楽しい生活の裏には厳しいことも多々ありました。

そんな国際結婚のセキララな現実をお楽しみください。



ドードー鳥のおかげで夫と出会った日

 夫との出会いはY基地の中だった。

 当時私は英会話教室で英語を習っていた。

 先生との会話だけではなく、友達がほしいなと言う私に友人が基地のアメリカ人を紹介してくれた。その男性が夫になったわけではなく、初フレンドは残念な男だった。

 イタリア系のその男性は短気(Hot head)で、ばっかやろー(Dick head)だった。 ただ本物の英会話を聞けるチャンスだし、友達はたくさんいたほうが良いと思い、基地に出入りすることにした。

 初めての基地の中。独身用のドームに何十人もの若いアメリカ軍人がいた。初めてのオール英語。

 勉強どころではなく頭がガンガンしてくる。紹介してもらったイタリア人、時々日本語でなにか言ってくるが、全くわからない。
ある日、あれ知ってるよね?と

「ボーノードーリー」と言った。

「え????ドードー鳥?」
 
「No!!No!! ボーノドーリ!!」そして英語で

「日本人なら誰でも知ってる!!わからないおまえはおかしい」と怒っていた。

 何十回もボーノドリ!!ボーノドーリ!!と叫びながら手を振りまわしている。
鶏か?いや、どう見てもドードー鳥の物まねだ。
怒りながら鶏ダンスをしているイタリア人。困り果てた日本人(私)

その時に助け舟が。その(ドードー鳥)の友達がすたすたと歩いて来て

 「ぼんおどり!」と言って去っていった。

 謎のボーノドーリは盆踊りだった。 

 

 その友達はスペイン系だった。スペイン語が母国の人は日本語の発音が非常にうまかった。

 若いアメリカ人同士は皆おもしろがって悪い言葉を教えあっていたが、「キィーンテァ~マ」ではなく「きんた◯!」と非常に綺麗に発音できる人だった。

 ボーノドーリーの謎はBon-odoriのBonのNと次のOがくっついて(ノ)という発音になったのだった。アメリカ英語では良くあるので、今ならピンとくるけれど、当時は想像もできなかった。

 踊りは全く盆踊りじゃなかった。

 かんかんなボーノー鳥の真っ赤な怒った顔を今でも思い出す。

 
 そんな独身寮のコミュニティールームで少々疲れていた私に

 「こんにちわあ」と日本語で話しかけ優しく笑ってくれた身体の大きい男性がいた。フレンドリーな良い人でいつもにこにこ笑っていた。

 何度か友人と一緒にグループで出かけた。そして、思いやりがあるその人にどんどん惹かれていった。

 この男性こそ、後に日本の絶世の美女(ちょっと嘘)と結婚することになる夫だった。

 数人の日米グループでピクニックに行ったり、山に行ったりしてグループでは楽しかった日々。でも初フレンドのボーノドリさんはますます独占欲が出てきて縛り付けようとしていた。

 ある日ボーノドリの部屋に遊びに行ったときのこと。

「もう夜遅い、俺は明日早いから泊まっていってくれ」という。

「え?絶対にダメ!何時になっても帰らないと!」と深夜の大げんか。大和撫子の大ピンチだ。

 その時にお休みだった夫は1人でリクレーションルームという独身寮での共用スペースでテレビを見ていた。

「あ、じゃあ僕が送っていくよ」

「そうしてくれ!俺は朝が早いんだ」

 それはもう聞いたとぷりぷりしながら車に乗り、丁寧にお礼を言って送ってもらったのだった。

約四〇分ののドライブの間も気を使ってくれた。そして家について
 
「本当にありがとう」と玄関の前に立ち「バイバイ」と手を振る。

 車が出る時に見送るのが礼儀の日本人。家に入るのを見届けるのが礼儀なアメリカ人。

 玄関前で立ち尽くす私。 車の中で微動だにしない夫。


 立ってる私。待ってる夫。

 立ってる私。待ってる夫。




 数分たち、やっと­­­「なにか変だ」と気が付いた私たち。

 車から顔を出して「かーぎー?かーぎー?」と言うので、何だろうと思っていたら自分のキーを見せて「かーぎ?」と首をかしげた。

翻訳すると

 「鍵を持っていなくて、家に入れないの?」

 それでやっと(文化の違い)に気が付いたのだった。

 大きな体で小さい日本の車に狭そうに座り「かーぎ?」と首を傾げている心優しい大きい人が好きになった。

スケロクと初デート


 ある日電話番号を交換して、思い切って電話をしてみた。 

 あわあわしないように、前もって言いたいことを紙に書いておいて練習してからかけたのだけど、やはりそうとう慌てていたようだ。

 「Hello How are you? お元気ですか?」という挨拶の後に、突然

 「I like you!!好きだ!」と言ってしまった。

 今書くとすっごく恥ずかしい、中学1年生の英語だと思う。
そして、続けて言ったのは

 「Take me out!」  

 自分としては

 「どこかに連れてってくれる?」みたいな甘い感じと思っていたのだけど、今考えると

 「どっか、連れてけ!」に近い。 というか、そのままだ。

 彼はびっくりしたと思う。おとなしく優しいとアメリカ人男性が憧れる日本女性がいきなり

「好きだ!どっか連れて行け!」

脅迫だ。

 まあ中学英語でもこうやってデートが始まったのだから、基本は大事だと思う。

 そんなふうに当時の私の英語はまだまだ片言で、夫の日本語は単語20個位。
長めのセリフは

「トイレはどこですか? 」

「ビールをください」

「この2つは大事だよ」と今でも言っている。

 初デートはお互いがハンディー辞書を持って行った。

 今の時代ならスマホでちょいちょいっと英単語が出てくるのに、辞書をめくるダサい私達。 でも、それもいい思い出だ。


 初デートは新宿にした。 

 待ち合わせ場所に現れた彼は、なんと胸一面に大きなカブキの絵が書いてあるTシャツを着ていた。しかもドーンと助六と書いてあった。





 今なら「うわ~だせえ」と笑う、そんなデザイン。でもその時はなんだかとても嬉しくなってしまった。

 日本が大好きで一生懸命日本語を習おうとするでっかいスケロク、いや外国人。
その姿を見て、ますます気に入ってしまった。

 その日はメモ片手に新宿観光をした。

 前日、英会話の本を見ながら(ここは新宿都庁です)とか(この辺は高層ビルが建っています)を英語で書き込んだメモ。
たどたどしい説明にオーバーにOH!!と喜んでくれる彼。なにか食べるたびに

「OH!おいし~です!」と大喜びしてくれた。 
道端で売ってる小さなおもちゃを見つけて

「OH!かわい!」 

 露天のおにいさんも「歌舞伎だね!助六かい!嬉しいね、似合ってるよ!」と嬉しそうだ。

「えっと、これ、くーださい」
「ありがとうね!ひとつ?」
「も、ひとつ!ツゥーください!」

 そこで売っていた薄い木でできた首が動く鳥とトンボのマグネットを買って、一つを「プレゼント!」と渡してくれた。 

 今はもう羽が折れたトンボは今でも我が家の宝箱に入っている。



 ☆箱から出して撮影。24年もたつのに色あせてないですね。良い思い出です☆



 この日、朝から夜まで一緒にいて、帰りには手をつないでいた。
朝待ち合わせした時はただの友達だったのだが、一日一緒にいて夕食を食べる頃にはすっかり意気投合していた。

 夕食はしゃぶしゃぶ屋さん。

「こうやってね、お肉を洗うようにするの。しゃーぶしゃーぶってね」
「しゃーぶしゃーぶ」
「そうそう、上手!しゃーぶしゃーぶ」


なにがしゃーぶしゃーぶだ!
 国際バカップルの誕生だ。




 この日の楽しさは今でも忘れられない。

 その後なんと数ヶ月で結婚することになり、あれよあれよで二十四年も経っていた。
いまでは変な日本語を話すおっさんと変な英語を話すおばはんだ。

息子も生まれ、大人になった。
夫のことは(おとうたん)と呼ぶことが多い。アメリカンおとうたんだ。

そんな私達の日常を綴っていきたいと思う。


じぇぺあーんラブと亀のお話


 まだ結婚する前に基地の独身者用のドームの部屋へ遊びに行った時のお話。

 在日米空軍の独身者は一部屋をルームメートと共有している。当時でも結構狭いところに住んでいるんだなあと思った。

 それぞれ工夫してあり、彼のルームメイトはベッド周りに病院のようにカーテンを引いてあった。これは彼女が来た時のあれやこれやのため。

 姿は見えぬが隣の声が丸聞こえというこの状況は、あれやこれやの英語の勉強には役に立ったかも? 行くんじゃなくて来るんだ?(I'm coming)みたいな。コホン、失礼。

 男性も女性も同じドームだが、ルームメイトは同性だ。

 そして彼の部屋。そこにはなんと、2畳だけだが畳が敷いてあった。基地の中のアメリカ風宿舎、大きなドアを開けると2畳の畳。 



 初めて見たときはびっくりした。 

「え~たたみ~??」

「うん、いいでしょう?タタミマット!ヘビーだった!」

2畳分の畳マット。 買って持って帰ったらしい。


そして壁には布のタペストリーがかっていた。

黒字に(京都)(日本)の金文字で漢字、絵は富士山と桜と舞妓さん。

ものすごい、べたなTheジャパーンなタペストリー。 

修学旅行の中学生でも買わない、そんなデザイン。

「これ、どこで買ったの?」

「あ!これ好き?欲しい?」

 
……いらねえ。

 
 壁に貼ってあるThe japanないろいろなものを見せてくれた。机の上にも金色の龍の置物があった。ん?これはジャパン?

 さらにベッドの上に毛布が掛けてあったのだが、目を引くロイヤルブルーの毛布に一面に大きな虎の模様が描かれている。



 頭のなかでドラの音がジャアーーンと鳴った。

 なんか、もう、日本ぢゃない。 

 それにしても、提灯とか紙でできたランプとかどこもかしこも日本ラブにあふれていて、私はぷっと笑いながらもすごく嬉しくなってしまった。


 それから、ペットの緑がめを大事に飼っていた。 大きな水槽に綺麗な水。色とりどりの石を敷き詰め、宝箱のような飾りも入っていた。

「あ!カメ飼ってるんだ!名前は?」

「かめちゃん!!」

 そのまんまや~ん。



 かめちゃんを買って帰った日に辞書で調べたそうだ。
そしてかめちゃんは初めて行ったお祭りで買ったらしい。

 多分福生の七夕祭り。

 「金魚すくいは楽しかったけど、難しかった」とか
 
 「焼いたコーンはソイソース味で美味しかった」とかすごくエンジョイしたようだ。嬉しそうに話してくれ、写真もたくさん見せてくれた。

 私には全然珍しくない(焼きとうもろこし)と書いたのれんや浴衣を着た子どもたち。

 そして小さいかめちゃんに一目惚れした夫。 

「あうう~これ、いくらでーすかー?」と涙目で聞いたに違いない。確信しているのは理由がある。結婚生活でこういう場面を何回か見たからだ。

 すごく大事にかめちゃんを飼っているのを見て、そして優しそうな目でカメちゃんを見るのを見て、この人は家族を大事にする人に違いないと直感した。

 そしてその直感は大当たりだった。

たくわんと刺し身


 日本食が大好きな夫、新しい味にチャレンジするのも大好きだ。

 カリフォルニア出身なので日本食も結構食べ慣れている。

 はじめて日本に来た時に1人で街を探検し、見るもの全て珍しく、写真を撮りながら街を練り歩いたそうだ。

 スーパーに入った夫はタクワンを見て大興奮したそう。 

「あれだ!カリフォルニアの日本食レストランの定食とかについている黄色い美味しいやつだ!!」大好きなアレ。

「これ、く~ださい」

 大喜びで長いタクワンを丸ごと買って、その場でビニールを剥きながらボリボリと歩き食いをしたそうだ。

「そうしたらね!半分も食べてないのに気持ち悪くなったんだよ!!」





当たり前だ。 

というか半分近く食べたんだ? 


 それに外国人だからすごく見られたと言ってたけど、それが理由じゃないと思う。

 ぐにゃった長い(たくわん)を丸ごとかじりながら歩いてる人。

怪しすぎます。


 確かに外国の食べ物は食べ方がわからない場合が多い。

 夫の母が日本に来た時に初デートに行ったしゃぶしゃぶ店に連れて行った。夫のママのことはマムと呼んでいた。

真ん中の鍋を見て

「お湯だけ!?」
「マム、ここにね、薄いお肉をスイースイーって洗うように入れるの」
「そうなの? びっくりした」

 またしゃぶしゃぶの食べ方を身振りで説明しているところに煮込む野菜がやってきた。
白菜、もやし、ネギが乗っている大きな皿を受け取ったマムはなんと

もっしゃ、もっしゃと食べ始めた。

「うわ~~~~~ストップ!それ鍋に入れるの~~ボイルボイル!!」

サラダだと思ったそうだ。

「味がないなと思った」と言いながら、もやしを食べていたのを今でも思い出す。


それから、夫は寿司と刺身も大好きだ。

つきあっていた頃

「お寿司大好き!!カリフォルニアでも、よく食べていたんだよ~!」

着ているのは桜の模様と寿司と大きく漢字で書かれたTシャツ。

うん、お寿司好きなのは見たらわかる。

 日本の新鮮なお刺身を食べさせたくて、結婚する前に和食のお店に行って刺身定食を頼んだ。
当時流行っていた和食ファミレスのようなところで、和テイストのお店に大興奮な夫。入り口で靴をぬぐのも大喜び。

 刺し身定食は、確かアジのような丸ごとの小ぶりのお魚がそのまま真ん中に乗っていて、周りにまぐろやイカのお刺身が並べてあったと思う。

「いただきまーす」と食べようとした瞬間、真ん中の魚の口が急にパクパクした。

「ぎゃ~~~」お店にとどろく野太い悲鳴。

「生きてる!これ生きてます!!!」

「日本の活造りっていうの新鮮な証拠なんだよ」

「だめ~かわいそう」

そしてなんと

「死んでください!死んでください~!」

思わず笑ったら

「ひどい」と涙目。

夫にはものすごくカルチャーショックだったようだ。

「あれは、本当にびっくりした。ショックだった」と今でも言っている。

 あれ以来用心している夫は、刺身を注文するときは写真をじっと見て(顔がついているか)を確認している。

それほど用心していたのだが、九州に行った時に、また遭遇してしまった。

顔のついた刺し身がパク~!!

「やめて~、また生きてる!」

「お刺身はまだいいかも、白魚の踊り食いっていうのもあってね…」

「やめて~」

どSな嫁大喜び。

それでも大好きなお刺身。
初対面の人に

「日本の好きな食べ物はお寿司とお刺身です。でも死んでいるのだけです」と言っている。
おかしいから、それ。

残念な夫の日本語 


 
 夫は日本に来る前に「はじめまして」を覚えたのだが、日本とアメリカは使い方が少々違う。

 アメリカの(はじめまして)にあたる「ナイストゥーミーチュー」は別れるときにも言うのだ。
 
 最後にもう一回握手して”Nice to meet you”と別れる。

なので日本語でも、「それではまた」と頭を下げる人に

 「はじめまして!!」と元気よく挨拶していた。


 言われた人は必ずぎょっとする。

 「間違ってるよ」

 「じゃあなんて言う?」

 「う~ん…お目にかかれて嬉しかったです。とかかな?

 「おメメにかかかれ…難しいよ!」

 「うーん、じゃあ、『じゃあね~』で良いんじゃない」

 それ以来、別れるときには誰にでも、そう目上の人にも

 「じゃあね~!!」

 違う。あっているけど、違う。

「ご家族の皆さんによろしくお伝え下さい」を
「かぞく、皆、よろしくです」

 近いけど、これも違う。

 夫の日本語、話す方は「あああ、惜しい」というのが多くて、通じるけど何か変だよ。というのが多い。何かが足りない、とか。

 これは私の英語も同じだけど、なんか多すぎ、なんか足りない。

 リスニングの方だけど、時々とんでもない勘違いもある。

 和食も大好きな夫はお正月はかかさずお節料理を食べる。 大好きな、黒豆、伊達巻、栗きんとん。
日本食材店で買ってきたお正月用品を冷蔵庫に片付けている時、夫に

 「栗きんとん多めに買ったよ」と声をかけた。

 「え?クリントン ?」

 「ち、違うよ!栗きんとん!台所!」

 「クリントン大統領?」

 なんでよ。





 話す方も、英語の文法そのまま日本語を入れて失敗というのが良くある。

英語は言葉の後にプリーズをつける。そうすると動詞で始まると命令形になる言葉でも柔らかくなるのだ。

例えば Sitシット(座れ)をプリーズをつけると(座ってください)に。

ちなみにSitは限りなくセットに近い発音です。
シットと発音すると(くそ)になるので気をつけて。

夫はプリーズとは丁寧な言葉、日本語で言うと(ください)と覚えている。

Eat please は食べてください。 
Drink please は飲んでください。

家族にも少しでも丁寧に話そうとする夫は、

「ご飯、ください」という使い方をする。
だが、息子になにか頼むとき大抵失敗している。

 電気消して、と言おうとして
「電気、ください!」

 宿題、しなさいは
「宿題、ください!」

 ゴミ捨てて、は
「ゴミ、ください!」

 極めつけは猫のトイレ綺麗にして、と言おうとして

 「猫のうん◯ください!」

 くださいって。ねこのって

 これが本当のシットプリーズ。

 お腹が痛くなるまで笑った。

「忘れないようにメモしておこう」と手帳に書いているとすごく悔しそうな夫。

「やめて!」

そこに(ください)つけたら完璧なのに。

マリッジライセンス


 23年前の日本ではまだ私たちは奇異な目で見られることも多かったように思う。
ただ、夫は日本でそれ以上に優しく親切にしてもらっていた。

例えばお店に入り
「こんにちは」というだけで
「あら~この外人さん日本語上手だわ~」とおまけしてもらっていた。

ずるい。

 私がアメリカでハローと言ってもハローと帰ってくるだけだ。誰もおまけをくれない。
助六のシャツを着てにこにこと「こんにちは」を連発する夫は多くの日本人から愛されてた。
ただ、結婚してから外国人であるがゆえの悲しいこともあった。
それは家を借りることが難しかったことだ。

(外国人お断り)と堂々と書いてある。(ペットお断り)よりも多いくらいだ。

 それまで優しくしてもらっていた外国人さんはすっかり落ち込んでいた。

 当時の日本では個人では見てもらえず、全員ひとくくりに(外国人)そしてお断りと続く。 
不動産屋さんも電話で小さな声で「でもね、良さそうな人ですよ」と言ってくれるだが、当時はかなり難しい状況だった。

 やっと見つけた家は大家さんが短期出張中の6ヶ月だけ契約の家だった。和室もある素敵な広い一軒家で私たちは手を取り合って喜んだ。
 一階はキッチンダイニング・リビング。2階は6畳2つ。真ん中に3畳の部屋があった、
夫は3畳の部屋をしげしげ眺め

「ここは?クローゼット?」

 ローマの休日のお姫様か?

 確かにその真中の部屋はあまり使いみちがなく、タンス置きの部屋になったので結果的には当たっていた。

 日本の家は確かに狭いし、夫は何回か頭もぶつけたりしたけれど、この家は2人暮らしに十分すぎるほど素敵な広い綺麗な家だった。

 和室が特にお気に入りで何も置かずに大事に使っていた。
たたみラブ。家具を置こうとすると
「ひ~なんてことを~!!」と。畳の部屋でも家具は置くよと言っても
「痛むから、だめ~」

 そんな感じで始まった結婚生活は最初は慣れずに戸惑うことも多かった。言葉の壁も大きかったし、文化の違いもお互い「なんでよう」と思うこともとても多かったように思う。
意思の疎通が出来なかった時は喧嘩にもなった。

 国際結婚は最初は何もかも珍しく甘い日々、長く生活していくうちに日々の細かいことで意見がくいちがったり、勘違いから喧嘩になったり、慣れない土地や文化に疲れたりする。
それでもお互いが歩み寄って理解できなくても、しようとする姿勢が大事ではないかと思う。

 米軍人と外国人(日本人であるワタクシ)の結婚は山のような書類をつくらなければならずに大変だった。 性病などの血液検査をして、指紋を取られ、逮捕歴の有無から精神疾患の検査とあらゆる検査もあった。

 今までの学歴職歴の履歴書を提出するのだが、一日でも隙間があってはならないと言われ困ったことも。

 アルバイトしてたり、何もしてなかった年もある。米軍側はその間テロ活動などしていなかったかなど調査しなければならないので「隙間は認めん!」と言うようなことをもう少しだけ丁寧な言葉で言われて書類を返された。仕方なく(近所の喫茶店でアルバイト)(家の仕事手伝い)なども書き込んだ。

今はどういうふうになっているかわからないけれど、私の時でもありとあらゆる質問が書いてある書類にサインして提出し、その間に面接もあった。

提出以降も受理まで6ヶ月くらい待つ。

 諸事情により早く結婚しなくちゃダメなの!ってな人はアメリカへ行っていた。ラスベガスに。そうすればあら不思議、即結婚。
軍の規定にかわりはないので、結局結婚後に山のような書類提出になるのかもしれないが。

私たちはゆっくり待てばいいよねと、のんびりしていたら

「はい、今日受理ね」とある日突然、マリッジ証明書をもらった。 

日本の婚姻届も同じ日にしたいと慌てて市役所に出かけて行った。そうしないと記念日がバラバラになってしまう。


 家を探したのはそれから。結婚式もそれから。
在日基地の教会での結婚式。チャーチで東洋の美女と西洋の美男子は結ばれた。(うははは、言いたい放題)

ウエディングドレスはアメリカのカタログでオーダーした。 サイズ6が大きすぎてお直し。サイズ6ってかなり小さめのMくらいです。 

 うわ~~ん!マイボディーカムバック! アメリカンな食事ですっかりサイズアップしてしまった今日このごろ。
日本で言う付き添いと言うか仲人というかそういう感じのブライズメイドは中学からのお友達、親友Sちゃんがつとめてくれた。

 当時は英語もわからない言葉が多くて、例の(病めるときも健やかなる時も)も英語だし、その後の誓いの言葉の

 ワタクシ〇〇は〇〇を夫として~というところを言わなくてはいけなくて、ド緊張だった。 ひ~~なんて声がひっくり返っていたはず。

 夕方からのパーティーは、やはり軍の中の施設で、仕事の後で軍服での出席者が多かった。しかもこの日緊急出動があって、(当時のお仕事は救命士)ビーパー(まだ携帯電話なかった、日本語でポケベル。これがビービーなってた)が鳴り、さーっと10人以上いなくなったりした。披露宴なのに!

 日本のお友達には特別パスを発行してもらった。そして披露宴といってもバフェスタイルのカジュアルなもの。基地の中のレストランからのオーダーだ。ウエディングケーキもオーダーしたが、アメリカのケーキが激甘かったことはいまだに語り草だ。

 そして招待した友人の、そのまた友人が来て、「おめでとう!!」と満面の笑顔でもりもり食事をしていた。
誰?
細かいことを気にしないようになったのはこの頃からかも知れない。